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「抽象」は「具象」の反対なのか?



「抽象」と「具象」は、一応は反対のものということに成っているわけですけれど、この二つは、「二極」を成すものではあっても、正反対ではないのだと思っているわけです。

つまり、割と近い範囲での「二極」ということだと思うのです。


「抽象」と言うと、どうしても「具象」と正反対のことを思い浮かべててしまいがちなわけですけれど、でも、実は、「抽象」と「具象」は「表現」と言う狭い領域の中で両極にあるというだけで、世の中全体を見た場合は、むしろ近い所にあるものなのだと思うのです。


でも、「抽象」という概念が出現してきたときに、「既存の表現形態」を”破壊するもの”というイメージで捉えられてしまったために、『「具象」を”破壊するもの”が「抽象」である』という正反対の位置付けがされてしまったのだと思うわけです。


でも、実際には、「抽象」に当たる「表現」も昔からあったわけで、ただ単に、それに「抽象」と言う名前を付けたというだけのことだったとも言えるわけです。


ただし、名前が与えられて、それが概念として確立されて行く過程で、そこに「意味」が問われるように成っていったというところが、それまでの「単なる表現」としての「抽象的なもの」との違いなのだと思うわけです。

言ってみれば、「なんとなく抽象」だったものが、「はっきりした抽象」に成ったということだと思います。


でも、それは「具象」も同じで、「抽象」に名前が付けられたことによって、それに対峙するものとして「具象」と言う名前も与えられたのでしょうし、その時点から、「具象」も、また、その「意味」を問われることに成ったわけなのでしょう。


この双方に対する「意味」が問い詰められる前に、「破壊」=「抽象」や「具象」VS「抽象」という流れに成ってしまったのだと思うわけです。

そして、それは未だに問い詰められていないようにも思えるわけです。


この「意味」という「問い」から逃れられる者は居ません。


自分に名付けられた名前から逃れられるものは居ないでしょう。
それは、自分から逃れられる者は居ないということです。

それと同じように、日本人に生まれた者は、日本人であることからは逃れられません。

さらにそれと同じように、ある「問い」や、ある「意味」が、既にそこに存在する時代に生まれた者は、それらから逃れることは出来ないわけです。

この「意味」という「問い」を回避しても、それは果てしなく繰り返し、問われ続けます。


だから、この「時代の発する問い」を回避し続ければ、そのことに疲れ切ってしまうでしょう。
でも、「時代」は疲れるということが無いわけです。


話が逸れてしまいましたが、「抽象」と「具象」は対立するべきものではなく、共存するべきものだと思うのです。


「抽象」と「具象」に限らずどんなものでも、二つの要素を「対立」の構図で捉えると「引き算」的になりますが、「両立」や「共存」と言う考え方をすれば、「足し算」や「掛け算」的に成るのかも知れません。


「抽象」には「具象性」=「現実性」が必要だし、「具象」には「抽象性」=「真実性」が必要なのだと思うのです。

そして、そうなったとき、その二つはとても近い所にあるのかなと。


そんな風に思っています。



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