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「アタマがイイ」と言われる「頭の良さ」



『あの人は頭がいいよね』と言うときの「頭の良さ」が、言う人によって随分違うなと感じることがあるわけです。


まず、学歴偏重系の人ですが、もうそろそろ、そういう人もそんなには居なくなったのだろうと思うと、まだまだ、けっこう居るみたいですね。

さすがに、高学歴=”エライ”という人は少なくなりましたけれど、「アタマがイイ」となると、俄然と学歴偏重色が強く出てきます。
要するに、その人たちは「勉強ができる」ということを、「アタマがイイ」の基準にしているわけです。


それから、「頭の回転が速い」ということを、「アタマがイイ」の基準にしている人も、かなりの数で居るようです。
日常会話の中で、気の利いた言葉を即座に返せる人が、「アタマがイイ」と言われることは、とても多いわけです。


あとは、リクツ屋系ですね。

何かにつけて、妙に回りくどい説明をしてみたり、小難しくて解りにくいことに限って、『これは解り易かった』と言うようなタイプですね。
そういう人を「アタマがイイ」と言っている人は、「論理性」を「アタマがイイ」の基準にしているということなのでしょう。


ほかにも、いろいろな「アタマがイイ」があると思いますけれど、いずれにしても、どのタイプの「アタマがイイ」なのかによって、随分、その「頭の良さ」が違っているわけです。


そこで思うことは、上に挙げたような「アタマがイイ」人たちは、確かに、何らかの「頭の良さ」を持っているのだと思うわけですが、そこから外れた「アタマがイイ人」も居るんじゃないかということなわけです。


高学歴ではなくて、口下手で、リクツ屋でもない人で、それでも「アタマがイイ人」なんて沢山居るような気がするのです。
いや、むしろ本当に「頭がいいこと」と言うのは、そういう人が持っている「頭の良さ」なんじゃないのかなと。


つまり、それは「思慮深さ」なのではないかと思うわけです。

当たり前と言えば、当たり前のことなんですけれど、その当たり前のところが抜けているように思われるわけなのです。


これが、いつごろからの傾向なのかはわかりませんけれど、いわゆる表面上の「アタマがイイ人」だけが「アタマがイイ」と言われて、その「表面的な頭の良さ」を持っていないと「アタマがイイ」とは言われなくなってしまっているように思われるわけなのです。

これは、世の中全体が表面的になっているからだと思うわけです。


表面だけが重視されて、「本質」や「核(コア)」の部分は無視されているわけです。
無視されるだけでなく、そういうものを「重い」・「メンドクサイ」こととして排除しようとする傾向もあるわけです。

でも、「表面的」で「軽い」、「メンドウがない」ことを、「アタマがイイ」と言うのにはチョット無理があるのではないのかなと。


それじゃ、何も考えていないのと大差ないでしょ。
それが、「今のニッポンのアタマがイイ」なのですかと。


そんなことを言いたくなってしまうわけなのです。




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