「現代美術的な視点」から見た「古典」とは何なのか
「美術」において「古典」と言うときに、だいたいの人がイメージする「時代」があると思うわけです。
でも、そういう「美術史的な観点」からではなく、「現代美術的な視点」から見たときの「古典」とは、どういうものを意味するのでしょうか?
「現代美術」の捉え方は、人それぞれで、いろいろだと思いますけれど、「現代美術」には、「古典」からの”脱出”と言う側面があったことは、多くの人が認めるところだと思うわけです。
そうだとすれば、その”脱出”したはずの「古典」を、同じ範疇のなかで「古典」と呼んでいることには無理があるように思われるわけです。
それらは、「現代美術的な視点」で見た場合、「古典よりさらに昔のもの」と考えた方がシックリくるように思うわけです。
更に言えば、「現代美術的な視点」をもって見た場合、「印象派」は勿論のこと「20世紀美術」も、もはや「古典」として考えるべきであって、それらはすでに、「”脱出”すべきもの」と成っているということになるわけです。
そして、現に、そういう考え方のもとに「コンテンポラリー」は進行しているわけです。
極端に言えば、「昨日のもの」は、すでに「古典」であるといってもいいような状況になっているわけです。
それは、つまり、例えて言うならば「オタク文化」も、もう既に「古典」であるということです。
それが世に現れた瞬間からとは言わないまでも、世間一般に認められた時点からは「古典化」が始まるわけで、言ってみれば、最も勢いがある時期には、それはもう「”脱出”すべきもの」と成っているというわけです。
つまり、この「古典からの”脱出”」と言う考え方を持ち続ける限り、「継続」や「継承」ということが出来ないわけです。
更に言えば、この「古典からの”脱出”」と言う考え方自体も、既に、世間一般に認められてしまっているわけです。
これは要するに、「古典からの”脱出”」と言う考え方自体が、もはや、「古典化」してきているのではないのかと思うわけです。
もしも、そうだとすれば、”脱出”すべきは、その考え方自体なのではないのかなと。
つまりは、「現代美術」の在り方自体を、その辺から根本的に問い直す必要があるのじゃないのかなと。
そのような考え方があってもいいんじゃないかと思います。
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