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いろいろなことを巻き戻したいわけなのです(続き)



前の記事の続きです。


私は自分なりに、少し「時代」を”巻き戻す”ことにしたわけですけれど、『なぜ、そこまでして「いま」を拒否しようとするのか?』という疑問があると思うわけです。


私の場合は「芸術」をきっかけにして、これを始めることに成ったわけですが、「いま」と言う時代の中で、「芸術」を真面目にやってみようと思った時に、この時代の中に居たままでは、自分は、「芸術の中心」には入っていけないだろうと思ってしまったわけです。


そして、いろいろなことを考えるうちに、『そこには、常に「時代」と言う”壁”があって、必ずそこにぶつかるから入っていくことが出来なくなっているんじゃないだろうか?』と思うように成ったわけです。

そしてそのことは、「芸術」以外のことで、いつも自分が感じていたこととも、ほぼ完全に符合することであったわけなのです。


そして、この「いま」と言う「病理」に思い至って、『この”病んだ時代”を受け入れてしまっていいのか?』また、、そして、『これを受け入れてしまった上で、なんのための”芸術”だというのか?』と言う気持ちになり、私は、とうとう「いま」を受け入れることが出来なくなってしまったというわけです。


より正確に言えば、病んでいるのは「いま」だけではななく、「全ての時代」が病んでいるということすら言えると思いますけれど、その「病状」が「時代」とともに進行して「いま」に至っているということだと思っています。


もともと、人間が「文化」や「文明」を持つかぎり(政治形態や社会機構等を含めた意味で)、この「社会的病理」を完全に免れることは出来ないのだと思うのです。


「人間」も「人間が生み出す論理」も完全ではあり得ませんから、当然、そこから構築される「文化」や「文明」と言ったものも、”完全性”を持つことは出来ません。

ところが、人間は何らかの”完全性”を精神的な拠りどころにしなければ、その「文化」・「文明」を推進していくことが出来ないわけです。

つまり、人間が「文化」・「文明」を推進していくためには、それが『正しいことである』という”絶対性”を裏付けにする必要があるわけです。

それが無いと、人間は自信や確信をもって物事を行うことが出来ないということだと思います。

しかし、それは、実際には不完全ですから、本当の意味では、”絶対性”を持ち得ません。
それで、全ての「人間の行い」は、いずれ何らかの形でその”不完全性”を露呈して、破綻してしまう”ハズ”なわけです。

ところが、はじめの段階で、拠りどころとした”完全性”が、邪魔をするわけです。

つまり、すでに破綻している「論理」に基づいた「文化」・「文明」が、初めに拠りどころとして与えられた”完全性”によって裏付けられているために、長い期間、維持されてしまうことが非常に多いわけです。


過去においては、破綻した「論理」に基づいた「文化」・「文明」は、ある程度の期間、維持された後、”その期間”を過ぎると、その破綻したものの”無意味さ”に人々が気付いて、修正されていたものと思われるわけです。

しかし、現代の「時代」の進行速度は、”その期間”を遥かに凌いでしまっており、修正する時間を与えてはくれないようになっているわけです。

そして、その「破綻」の上に、さらに新たな「文化」・「文明」が築かれていくわけです。
つまり、そういう形で築き上げられているのが「いまと言う時代」ということに成ります。


そしてさらに言えば、この「破綻」の上に「破綻」が累々と積み重ねられた「時代の病理」を、すべて飲み込んで、自己処理することを求められている者こそが、「いまと言う時代」を生きる「現代人」ということに成るわけです。

そのうえ、さらに付け加えるなら、この「時代の病理」の身代わりとなって精神病理的な状況に陥った人に対して、その根本原因である「いまと言う時代」を指摘する者はまったく居ないというしかありません。

そのような状態の人が、精神科やカウンセラーの門をたたいても、社会の最小単位である「家族関係」や「職場の人間関係」におけるトラウマやストレスと言うプライベートな範囲内において原因が求められてしまうために(それは確かに原因ではあるのですが)、【過去から積み上げられてきた歴史を含めた意味での「いまと言う時代」】 という、、一人の人間には到底太刀打ちできないものが、真の原因であるという観点が抜けてしまうわけなのです。


もともと、「医療」においては、「人間が社会に適応できなくなるような状態」を「病理」と呼ぶ傾向がありますから、「社会」の側が”病んでいること”は「医療」の守備範囲とは考えられていないのでしょう。

また、同じ理由から「社会復帰」をもって「治癒」とする傾向がありますから、患者と医師の間の「治療」の範囲では、改善することが不可能な「時代の病理」については、、『それを言っても始まらないから』ということで放置されてしまい、取り敢えず、目の前にあるトラウマやストレスをコントロールすることで、どうにか「社会復帰」できるようにするという「対症療法」が主流を占めてしまうわけです。
(実際は、それが全てと言うべきでしょう)

そしてそのことによって、患者は「社会復帰」と引き換えに、「時代の病理」と言う、更に”巨大な不条理”を飲み込まされてしまうわけなのです。


そう考えると、そのように病んでいる「いまと言う時代」に対して、何のストレスも感じずに過ごせる人が居るとすれば、その人こそが、「病的」な状態にあるわけで、むしろ、現在「精神病理的症状」を呈している人と言うのは、その「精神的健全性」によって、その「症状」に陥っていると考えられなくもないわけです。

従って、「健全性」を「病理」として、「病理性」を「正常」とする逆転が起きてしまっているわけです。


その結果、大半を占める「健全な人たち」が、その「健全性」を失いつつあるわけです。
しかも、その「病理」をもって「正常」とするような「異常性」に気付くことすらなくなり、それどころか、それを頑として認めようとしなく成ってしまっている人も急激に増えてきているわけです。


長くなってしまいましたが、以上のことが、私が「いまと言う時代」を受け入れられなくなった経緯なのです。


そして、もう一つ、『なぜ、過去へ巻き戻すのか?どうして未来へ向かわないのか?』

それを次の記事に書きます。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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