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「民衆」という「独裁者」



私なんかもそうなんですけど、世の中にうまくいっていないことがあると、だいたいのことは『政治や社会が悪いからだ』ということしてしまう習性があるわけです。

でも、本来は、「民主主義」ですから、「民衆」に責任がある”ハズ”なわけです。


私は、現在の「民主主義」というものが建前通りの機能を果たしてはいないと思うので(多数決が機能していない)、「民主主義」だからと言って、すべての責任が「民衆」にあるとは思いませんし、「民主主義」が機能不全に陥っているのは「民主主義」と言うシステムの問題だと思いますから、それも「民衆」の責任だとは思わないわけです。


しかし、それが「民主主義」自体の問題であるのならば、それは、現時点での「政治や社会」の問題とも言えないところがあるわけです。


現時点での「政治や社会」は、現行の制度を尊守するべく設定されているわけですから、その「政治や社会」自身が、それを根本から変えることはなかなかできないわけです。

だから、「民主主義」が正常に機能していなくても、「民主主義政治」は、その機能していない「民主主義」を守り続けるでしょうし、「社会」も常にそれを支持するわけです。


その結果、「民衆」という「独裁者」が生まれてしまっているように思うわけです。

※ここで言う「民衆」とは、「みんな」という意味の「民衆」ではなく「誰でもない者」
 としての「民衆」です。
 「みんなの意思」は「個人の意思」に帰結しますが、ここで言うところの「誰でも
 ない民衆の意思」は、「個人の意思」を無視します。

※また、社会主義的な考え方の中に「プロレタリア独裁」という考え方があると思
 いますが、この話は、そちらとはほとんど関係ありません。 
 「プロレタリア独裁」は、(一時的に)「民衆」に絶対的な権力を与えることによっ
 て、真の民主的な社会を創り出すことを目的とした考え方かと思いますが、ここ
 では、むしろ、「民衆」とは「個人の集合」ではなく、「誰でもない全員」という空虚
 な存在であり、その「無人の衆」に主権を与えるということは「誰でもない暴君」と
 いう亡霊のような独裁者を創り出してしまうのではないか?ということを言ってい
 ます。
 つまり、「プロレタリア独裁」という考え方がソフト化されて形だけに成って、現在
 に生き残ってしまっているために、現れてきている弊害について述べているわけ
 ですね。

「民衆」を「独裁者」なんて言ったら怒る人もいるかもしれませんけど、「独裁政治」の下では、「独裁者」を「独裁者」と言っても怒られるわけです。


つまり、「民主主義」ですから、一応何でも「民衆」が決めていることになっているわけです。

ところが、それが機能していませんから、時として暴走して”トンチンカン”なことをしたりするわけです。
そして、それも全て「民衆」が決めているということに成っているわけです。


そして、自分たちが決めている”ハズ”になっていることの”デタラメさ”にいら立って、みんな『政治が悪いんだ』と言っているわけです。


一人の人間が独断で「政治」を行えば「独裁政治」になります。
一部の人間の利益に偏った「政治」が行われれば、「利権的な政治」ということです。

そこのところを、すべての人の意思が”均等に”反映されるという前提で「民主主義政治」になるわけです。
そして、これを有り難いものだと信じているわけです。


ところが、それが機能していないということになると、当然、すべての人間の意思が反映されることはありません。

それだけなら、まだいいんですけど、場合によっては誰の意見も反映されていない、なんていうこともあるわけです。

『”均等に”誰のためにもならない』という感じです。


つまり、「民衆」という”誰でもないもの”の意思ですべてが決定されてしまうという、特殊な「独裁政治」が生まれてしまっているわけです。

”みんなの意思”とはまた別の「民衆の意思」があるということです。


現在の「民衆の意思」は、その「民衆」を構成している一人一人の人間の意思を明らかに無視しているときがあります。
”踏みにじられている”と感じられることすらあるわけです。

それなのに、なぜか元をたどっていくと、キチンと「個々の民衆の判断」によって成り立っているということになっているわけです。

つまり、「人民の、人民による、人民の為の判断」が、その「人民」を”踏みにじっている”わけです。
(みんなで寄ってたかって意見を出し合った結果、”誰も望んでいない”結論に達してしまうというようなものでしょう)


要するに「独裁者」も「民衆」で、支配されているのも「民衆」ということです。

「独裁者」である「民衆」は実体のない形式上の「民衆」という亡霊のような存在です。
実態はありませんが、その「意思」だけが存在します。

そして、支配されている「民衆」が、実体としての「民衆」なわけです。


「社会主義・共産主義」はすでに崩壊していると言わざるを得ませんが、実は、それと同時に「民主主義・自由主義」も崩壊してしまっているように思われてならないのです。

少なくとも、現在の状態のままの「民主主義・自由主義」では、現代社会の中で、それを正常に機能させることはできないのだと思うわけです。


ですから、最も重要なのは「民主主義」が正常に機能することができるような状態を作り出すことで、それには、形骸化してしまっている「多数決」を有効にしなくてはならないわけです。


私は、陪審員(裁判員)制度のような、少人数の無作為に選ばれた人による決議を採用する勇気が必要だと思っています。


これは「全員参加」という建前を無視しているわけですが、その他の建前も全体的に崩壊しているわけですから、そこだけ守っても、どうしようもないと思うわけです。


もちろん「全員参加」の領域も残さなければならないでしょうが、そこでの「全員参加」と「無作為抽出サンプル」の関係は、「参議院」と「衆議院」のような関係になるわけです。

それをもっと明確に色分けした形ということでしょう。


あまりに多くの人間が集まって、何か決めると”ロクデモナイ”ことしか出てこないというのは事実だと思います。


人間は「社会」の中でしか生きられないと思いますから、「社会」の影響を受けやすいと思うのです。
だから、「社会」の中に投入された人間は、その影響で歪んだ判断しか下せなくなってしまうわけです。


「三人寄れば文殊の知恵」と言うのは「三人」だからいいわけで、「百人」ではダメなんだと思います。

それはどちらかと言えば、「船頭多くして、船、山に登る」なわけです。


人が意見を出し合って何かを決める場合、「協調」すれば、「足し算」に、「共鳴」し合えば、「掛け算」に成りますが、「妥協」すれば「プラス・マイナス・ゼロ」に成るし、「競争」すれば「引き算」に、「敵対」すれば「割り算」に成ります。
(「競争」で高められるのは「個人の能力」であって、「組織の機能」ではないと思います)


集められる人の数が多ければ多いほど、「協調」や「共鳴」は難しくなるわけです。

「協調」や「共鳴」は、もともと、狭い範囲で起きるものであって、”たった一人”の発する「不協和音」がすべてを”ノイズ”に変えてしまいます。

人の数が増え過ぎると、その「不協和音」が、いかなるものであるのかを検討しきれなくなってしまいます。
それで、結果的に、たくさんの音がでたらめに鳴り響いている状態になってしまうわけです。

それでは、共鳴作用が起きるわけがありません。


そこで、「個人」としての人間の判断を生かしていくほうがいいように思うわけです。


だから、いろいろなことで「個人」を切り離していけるようになればいいように思います。
「社会」の規模が大きすぎて「個人」が消えてしまっているわけです。

「社会」を小さく切り取って「抽出」したサンプルの中では、「個人」がようやく見えてきます。


だいたい、教育の現場で「個性」と言われだしてきてから、日増しに「没個性化」しているように思えてなりません。

それは、「個性」と言う言葉で、「社会性」と「個人性」が、あたかも簡単に両立できるものであるような、幻想を人の心に植え付けてきたからだと思うわけです。


そして、「個性」「個性」と言いながら、実はそこで植えつけてきたのは、「社会性」という「個性」とは相反するものだったということだと思うのです。


「個人」でよかったんじゃないかと思います。

”社会的”であると同時に”個人的”であると言うことが、極めて困難なことであるということを、そして、その二つは反駁し合うものであることをもって、お互いを必要としていることを、教えるべきだったんじゃないかなと。

”社会的であるべき”という妄想が、「民衆」という「独裁者」を作り出してしまったのかなと。


そういう空想を抱いててみました。





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