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2. 21世紀以降の未来へ向けて、新たな芸術を創造することが可能な時代環境を改めて設定し直す必要がある

 
 現代という時代が所有している芸術理念について考えると、20世紀初頭から連綿と続けられてきた破壊・挑戦・錯綜・妥協・放置、等々ありとあらゆる要素が「芸術の空転」を助長し、混迷を深める方向に作用してしまった結果、それは本来あるべき姿を失ってしまっていると言わざるを得ない。

また、その状況がその都度修正された形跡はほとんど見られない。


その時期、「アヴァンギャルド(前衛)」という意識が必要であったことを否定するつもりはない。

しかし、それが初めの段階で求めていたものから大きく外れて、根拠も情熱も意識すらも薄れて行くなかで、すでに意味がなくなった破壊や逆転を惰性で繰り返すだけの「空虚な芸術の残骸」と化した後も、その虚構の連鎖を果てしなく続け、「虚構の芸術」という「意味のない世界」を創り出してしまったことを顧みることはせずに、むしろ自己を正当化して、その「意味のない世界」を「正統な芸術」として押し通してしまったことにおいては、何らかの責任が問われるべきだろう。



ここで、「20世紀」に「芸術」の場で起きた出来事の「私なりの解釈」をまとめておく。

「19世紀」から「20世紀」にかけて起きた「科学の進歩」「技術革新」「情報の高速化」「宗教的世界観の変動」という、その時代の人々の常識を覆すような出来事の連続に直面して「芸術」も変革を求められていた。

「印象派」がきっかけとなって、「より斬新な」「より独創的な」「より画期的な」という『20世紀の急進』が起こる。
しかし、人々はまだ「革新」を受け入れる準備ができていなかったために、一つのスタイルを処理しきれないうちに、次から次へと新しいスタイルを提示され続け、『混迷』に陥ってしまう。


一方、「創作者」の側では『混迷』に陥っている鑑賞者たちに気付く余裕が全く無く、『誰が一番新しいか』『誰が一番独創的か』といった「先頭争い」に血眼になってしまっていた。

その結果、本来は手段であるべき「革新」が目的化してしまい、本来の目的を見失い「創作者」もまた「混迷」に陥ってしまった。

そして、この双方の「混迷」において様々な「誤り」が生み出され、しかも、その「誤り」が、ろくに吟味されないまま、とりあえず『現代の芸術である』とされてしまった。

※ここで、「誤り」と言っているが、それは絶対的な意味での「正しさ」を想定して、それに対して「誤り」と言っているわけではない。
あくまで、『混迷の渦』に飲み込まれた状態で、何かを判断すること、それ自体を「誤り」と言っているわけで、その「判断基準を持たない判断」を強行するという「暴力的な行為」を指して「誤り」といっている。


さらには、それが一定の時を経てもなお修正されなかったために、既成事実化して「正統」にまでなってしまう。
(まさに、この時「正統としての現代美術」と言うジャンルが形成されたのである)

ここで、これらの「誤り」がさらに絡まり合って「塊」になり、がんじがらめに「20世紀」とその時代の人を縛り付けるようになったのである。

この「誤りの塊」を、ここでは『20世紀の誤謬(ごびゅう)』と呼ぶことにする。


また、「混迷」の方も単独の「混迷」のままには留まらず「混迷」が「混迷」を生むという「渦」を巻くようになり、それに抵抗したり修正したりしようとする者を、すべて飲み込んでしまうような求心力を持った『混迷の渦』に成っていく。


そんな混沌とした状態の中で『20世紀の急進』は、さらに過激になり世紀の半ばまでの社会的激動とも連動し、「より奇抜な」「より破壊的な」「より破滅的な」と短絡的な路線をとるように成り、最終的には『新しければ何でもいい』~『変わっていればそれだけでいい』、そして、最終的には『なんでもあり』となって現在に至っている。

これがわたしの≪芸術の20世紀≫の解釈だ。


※『20世紀の急進』:20世紀において、人々の心の準備ができていないうちに起きた、
          あまりに急激で高速な意識変革の波状的な連続をここではこう呼ん
          でいる。
※『20世紀の誤謬』:古典から続く歴史の中で、芸術という概念が明確に規定される
          ことはなかった。
          (芸術という概念はすでに正しく規定されていると思い込まれていた
           のだろう)
          その状態を改めることができていなかった20世紀初頭に置ける、あ
          まりに急進的で暴力的な試行錯誤の連続が生み出した”がんじがら
          めの誤りの塊 ”をここでは「20世紀の誤謬」と呼ぶ。


上に述べたようなことが、振り返る間もなく次々と連続して起きた結果、現代における芸術理念は極めて曖昧で、弱々しく漠然としたものになってしまった。

このような脆弱な理念を基盤に、新たな芸術を展開することができるとはとても思えない。
精神が宿るべき肉体を持った芸術理念を、新しい時代の基盤として一刻も早く打ち立てなければならない。



2014年現在の「芸術の時代」=「芸術の今」を見渡すと、すべての人が本来の拠り所を失ってどこかしらに逃げ込んで「ヒキコモッテ」しまっているように見える。

何らかの「技法やスタイル」または「諦め」や「自虐」など、それぞれ逃げ場所を見つけ出して、そこに逃げ込んでいるように見えてしまうのだ。


少なくとも、学生を卒業して社会に出た人にとって、「現在の芸術の場」が自由に力を発揮できる場所に成っていないのは、もう、間違いのない事実と言っていいのではないだろうか。
だからこそ、彼らはヒキコモッテしまっているのだろう。
しかし、彼らは本来そこにいるべき人なのだろうか。

もちろん、彼らの逃避的な姿勢を責めようという話ではない。
と言うより、私自身も、まだ、そうした場所のどこかに居ることに変わりはない。

私が言いたいのは、あくまで今の逃避せざるを得ない状況のことだ。


この状況が厳しすぎるのは間違いない。
だからみんな逃げ込んでいるのだろう。

逃げ込んでいる人たちの中にはきっと「本当の芸術者」がたくさんいるに違いない。
いや、それだけではない、この「芸術からかけ離れた世界」の中心にいられるような人を、私は「芸術者」とは呼ばない。
だから、逃げ込んでいる人たちを責めるつもりなど毛頭ない。

※「芸術者」:「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を指す。
この三者を、完全に対等な関係として考えるために「芸術者」という言葉を使っている。
      

でも、彼らにも認めてほしい、自分たちが居る「芸術の表層のごく狭い片隅」、その奥行のない貼り付けられた表面上で、なぜ自分たちが隠れていなければならないのか、極端に狭い範囲に閉じ込められていなければならないのか。
もしも、それを認めることが出来たなら、自分をその閉じ込められた空間から解放してほしい。


もう現時点においては、そんなに悠長なことを言っていることに何の意味もないし、置いて行きたい人なんて誰もいないのだから。

もう、待っている時ではない。
我慢する必要もない。
何かしなければ何も起きない。


『いつの時代もこんなもんだったんじゃない?』
『また、そのうちに良く成るんじゃない?』

断言する。

『違う』
『成らない』

『これが今の時代なんだから、それを受け入れるべきなんじゃないの?』

断言する。

『違う』
『受け入れてはいけない』


現在進行形の芸術を、どんなに過激に奇抜に、いじりまわしても空虚な音が「カラカラ」と響くだけだろう。

コンテンポラリーアートが空虚だと言っているのではなく、立っている地平(時代)の軸がずれていると言いたいのだ。

中には「空虚」から抜け出している者もいるのだろう。
しかし、彼らは抜け出すのに力を使いきってしまい、必ずや疲弊してしまっている。
しかも、決して評価されることはない。


評価されるのは「空虚」なものの方だから。
「時代」が「空虚」を選ぶのだから・・・・
必ず。


もうここに、この場所、この時代に立っていてはいけない。
私たちは、臆病な穏健主義者ではないはずだ。

≪芸術の20世紀≫が持っていたチャレンジ精神は私たちの中にも生きている。
それを捨てる必要はないだろう。

どうなってしまうかはわからない。
どこへ行ってしまうのかもわからない。

しかし船を漕ぎ出す時が来ているのは明らかだ。
そして我々は、きっとそうするだろう。


なぜなら、そうするしか、ほかに道はないのだから。




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21:Re: タイトルなし
「アマチュアの時代」と言う言葉は、とてもうれしい響きですね。

こういう言い方をすると、「自分がプロになれないからヒガンデ言っているのだ」と取る人が居ますが、
そういう意味も含めて、「プロ」と言う言葉を振り回すというのは、どうも威圧的で好きになれません。
「プロ」と言う言葉を出せば、「プロ」じゃない人たちは手も足も出ないと思っている。
実際、ほとんどの「プロ」じゃない人たちは「プロ」と言う言葉に対してコンプレックスを
植え付けられているから、反論する気力も出ない。

でも「プロ」になることと厳格な姿勢の「アマ」でい続けること、どちらが「芸術の中心」に近いかは
両方経験した人に聞けば、答えは明白だと思います。

オリンピックに「プロ」が参加できるようになったときに「アマチュアリズム」が崩壊したことは明らかなことだと思いますが、実はその時「プロフェッショナル」という概念も崩壊してしまったのではないのでしょうか。

私はベルリンの壁が崩壊したときに「共産主義」とともに「資本主義」も崩壊したと考えていますが、現在資本主義が世界を取りまとめているように見えているのは、おそらくそれに替わるものがないからだと思います。
その資本主義経済を基盤とする、「プロ」という概念も替わるものがないから存続しているにすぎないと思うわけです。

もしかすると、「プロ」「アマ」とは違う言葉が求められているのかもしれませんね。

このようなお話をさせてもらえることに、とても感謝しております。
また、ご意見・ご批判等、ありましたらお気軽にどうぞ。
と言うより、こちらからお願いいたします。
20:
大変面白い仮説と時代考察だと思います。
しかし何も突拍子も無い事を仰ってるのでは無く、これまで長く考えて来られた考えの重さも感じられます。

日本人は世の中の中庸と思われる領域から大きく逸れたり、自分だけ孤独の航海に出る方は少ないと思います。
恐らくそれは日本社会がそうさしている事にも原因があると考えています。
だから何処を覗いても、評論家達はパトロン向けの提灯記事しか書かず。
自らの言葉を発しません。
プロと言う領域の書き手程その傾向が強いと思います。
それは本当の事を書く事が結果として食えなくなる事を意味しています。
業界から干されるか徹底的に無視されます。
殆どの方は若い頃は純粋だったのが、歳をとるのつれ理想と現実は違うと自分に言い聞かせ中庸と言うお化けの中に埋没させて生きてゆきます。
言論に付いては私はフランスの方がまだマトモだと考えています。
フランス社会はオリジナルに重きを置きますから、他人と違う事を書かなきゃいけない、切り口に独自の新しい観点がなければ評価されない。

私はこれからはアマチュアの時代じゃないかと考えています。
これはインターネットの発展と大きな相関関係があると思います。
情報を発信するのも市井の人達、そしてその情報を吟味して咀嚼するのも無名の市民。。
それがもっと大きなうねりとなり、現存する既成の利益にしがみつく人達を押しやってくれる日が来るでしょう。
その様な環境の中から新しい何かが生まれてくる感触を感じています。

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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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