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いまも「信仰」は必要なのか?



「信仰」と言うものは、現代と言う時代の中で、どのような役割を担っているのでしょうか?


以下は、「信仰」を持たないような人間の考えることですので、「信仰」をお持ちの方は、お気になさらないでください。
と言っても、「宗教」がキライだというこが言いたいわけではありません。

また、「信仰」と言うものを悪いものだと捉える気持ちもありません。

私が言いたいことは、「絶対的なもの」と言うのは、つまり「神」ですね、今もまだ必要なのか?ということです。


そもそも、「絶対的なもの」と言うのは、人間の思考の範囲では把握できないと思うのです。
つまり、自分より大きなものと言うのは把握できないと思うわけです。

だから、人間に、それができるのであれば、人間自身が「絶対者」または「それ以上のもの」であるということになってしまうわけです。

でも、それはないのでしょう。


もともと、人間が自分たちには把握しきれないようなものを求めていたことから、、「信仰」が生み出されたように思うのです。

要するに、「畏怖」を持ちたかったのではないかと思うのです。

何かに対して「恐れおののくこと」で自己の不完全性に折り合いをつけようとしたのだと思います。
つまり、自分が不完全であることに理由を求めていった結果、『実は世の中には完全なものがあって、自分たちはまだそこに到達できないから不完全なんだ』という形に行き着いたのだと言う気がするのです。


動物は「信仰」を持っていないように見えます。
動物も「畏怖」は持っているように見えます。

動物はそれを自己の不完全性に置き換えることをしないので、敢えて、より強い「畏怖」を求める必要が無く、「信仰」を必要とすることもないのではないかと思うのです。

動物においては、「恐れ」は「恐れ」のまま受け止められて、過ぎ去れば忘れられてしまうのだと思います。


人間はそれに対して理由を求めてしまうわけです。

つまり、『「恐れ」があるのはなぜだろうか?』と言う問いが発生するわけです。
そして、自分たちの不完全性を発見してしまうわけなのです。

そこから、さらに「完全なもの」の存在が必要になってくるのだと思うわけです。


この話に限らず、「神」や「神秘」の話と言うのは、総じて逆説的であると感じることが多いのです。

「神」を前提にして、全てを構成した思想が「宗教」と言う体系に成ります。
すると、そこには秩序が出来上がっていますから、簡単には崩れません。

しかし、その「神」の根拠となると、『理由なんて必要ないぐらいに間違いないから』と言う無根拠がそこにあるわけです。


本当に間違いのないものであれば、逆説をとらなくてもそこに行き着くはずです。
つまり、「神」を前提としなくても、「神」を前提とした時と同じ理論が発生するはずですし、それは「神」に行き着くはずです。

でも、そうした「宗教論」や「宗教思想」に出会ったことは無いように思います。
特に勉強したわけではないので、そういったものもあるのかも知れませんけれど、そうなると、人間が「神」を把握できてしまうという、はじめの話に戻ってしまうわけです。


つまり、「神」を前提としないでも「神」に行き着くには、その過程で人間が「神」を把握する必要があるわけです。
そうなると、やはりそこには無理があるように思われてくるというわけです。


そうした諸々の逆説が、時代とともに矛盾として表出してきていると思うわけです。
そして「宗教」は、時代に合わせて形を少しづつ変化させながら、その矛盾を吸収してきているわけです。


でも、そこまでして「宗教」や「信仰」を存続させ続ける必要と言うのはあるのでしょうか?


もし仮に、新しく生まれてきた子供たちに、一切、「宗教」とか「神」とかいう概念を教育しなかったとしたら、そこに「宗教」は生み出されるのでしょうか?

もし、それが必要なものであれば、当然それは生み出されるはずです。

これと同じことを、過去の時代に行っていれば、きっとそうなるのでしょう。


しかし、現代となるとどうでしょうか?

「現代の社会」、「現代の教育」、「現代の文明」、「現代の文化」、「現代の人間」と言う前提で、考えた場合「新しい子供たち」は、「神」や「信仰」や「宗教」を選択するでしょうか?

それは、その後も支持を獲得し続けられるでしょうか?

こんなことは出来ることでもないので、言っても仕方がないことですけど、この「新しい子供たち」の選ぶものが「真実」なのだと思います。


そこで、それが出来ないものならばと、出来るだけ「新しい子供たち」に近い発想で考えてみると、私の場合は、「信仰」を必要としていないことに行き当たってしまうというわけなのです。


「信仰」をお持ちの方からすれば「残念な人」ということに成るのかも知れませんが、私は、その「残念な人」に成りたいのかも知れません。

そして、それは私の言葉では「普通の人」でもあります。


と、そんなことを考えてみました。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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