FC2ブログ

「時代の芸術」



「古典」から何かを受け継ぐことや、それをさらに「継承」していくことは、とても重要なことだと思っているわけです。


現在においても、「古典芸術」やそのスタイルを「踏襲」している人や、それを愛好している人は沢山居るわけですが、この「踏襲」と「継承」の違いが大きいように思うのです。

私は、「芸術」においては、そこに「意味」を創り出すことが不可欠の要素だと思っているわけです。

「何の意味もないもの」を創作して、それを「芸術」と言ってはいけないのではないかと思っているわけです。
(とは言っても「何の意味もないもの」を創るのは不可能だとも思いますが)


要するに、「ただ単にキレイ」とか「ただ単にオモシロイ」とかですね。

そこにも「意味」はあると思いますが、それは、ただ単に、そこにある「意味」であって、作者によって創り出された「意味」ではないように思うわけです。


そして、その作者による「四苦八苦」・「悪戦苦闘」・「七転び八起き」等々があって、ようやく、そこに創り出された「意味」に、人が心を動かされるのだと思っているわけです。


『それって、精神論なんじゃないの?』と言われてしまいそうですが、確かに、その通りなのかもしれません。
でも、私は「芸術」そのものが「精神的な世界」だと思っていますから、それは当たり前だと思っているわけです。


そこで、「意味」のあるものを作るという前提で考えるわけですが、すでに出来上がってしまっている「古典」を「踏襲」することでは、そこに「意味」を作り出すことが出来る領域は極めて少なくなってしまうわけなのです。

これは「古典」に限ったことでもありませんけど、既に完成されたものの中で、作者が「意味」を創作することは極めて困難なことなわけです。

まぁ、既に出来ていますから「四苦八苦」する必要が無いということかと思います。
(困難じゃないから困難になるという、ややこしいことになりますが)


そこで、「技術」で人を納得させることを「芸術」と言ってはいけないように思うのです。
それは、あくまで「技術」であって「芸術」ではないわけですから。


「技術」を見せつけられれば、人は納得しますし感心してくれるわけです。
しかし、その「感心」と「感動」を、作者が意図的にすり替えてはいけないと思うわけです。


「技術」を習得するのにも、それなりの努力は必要だとは思いますけれど、それは、「芸術」において特別なことではなく、他のどんな分野においても同じことなわけです。

どんな分野でも「技術」や「熟練」はひとを「感心」させはしますが、「感動」させるとは限りません。
人を「感動」させるのは、やはり「技術ではない芸術」だと思います。


どんなものでも、「芸術」に成り得ると思います。
でも、どんなものでも「芸術」だとは思いません。

つまり、「技術ではない芸術」に踏み込めば、どんなものでも「芸術」に成ります。
そこに踏み込んでいなければ、それは「芸術ではない技術」です。


「古典」や「歴史」は「継承」されてこそ、「意味」を持つものだと思います。
そして、それを「継承」することから、新たな「意味」が創作されるのだと思っているわけです。

「継承」することとは、それを理解して、さらに自分の中で再構成してから現すことだと思っています。


それから、どんなスタイルも、その時代にあってこそ「意味」を持つのだと思います。
「古典」の鑑賞者は、「古典の時代」に連れていかれて、「古典の時代」の中で「感動」するのだと思います。

「現代芸術」の鑑賞者は、「今の時代」に居てそのまま「感動」しているわけです。
どちらを選ぶかは、単に好みの問題でしょう。


「今の時代」に居て、「古典」を鑑賞することから生まれるのは「ノスタルジー」です。
それは「感動」ではなく「郷愁」や「感傷」です。

「古典」で「感動」するためには、鑑賞者の側から、「その作品の時代」へ行かなければなりません。
それでなければ、「郷愁」や「感傷」は得られても、「感動」は得られないと思います。

それも、「芸術鑑賞」の一つの形ではあるでしょうが、それを「現在形の芸術」と同列に並べるのは、問題があると思います。

もちろん、そういう鑑賞が悪いということではありません。
そこのところが、区別できているならば、何の問題もないのだと思います。
ただ、そういう「小さなズレ」から、「芸術」が本来の姿を失いつつあるというのが、現在の状況なのだと思うわけです。


ですから、創作者は、後の世代の鑑賞者を「今の時代」に連れてこられるような作品を作る必要があるわけです。
そして、それには、「現在形の意味」を創り出す必要があると思うわけです。

要するに、それが普遍性だと思うのです。

それでなければ、即時的、刹那的なものにとどまってしまうわけです。
それでは、後世の人を「今の時代」=「その作品が作られた時代」に連れてくることは出来ません。

そういうものは「今しか通用しない」でしょう。


そこで、やはり「今の時代」にあってこその「意味」を作り出さないとならないんじゃないのかなと。


そんな考えを持っているわけです。



関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR