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「命の重さ」と「精神の重さ」



「命の重さ」が、重いということは言うまでもないことなのでしょうが、それは「精神の重さ」と比べた場合どちらが重いんでしょうか?


例えば、人間としての「誇り」とか「尊厳」みたいなものと比べた場合に、「命の重さ」は、それらよりも重いのでしょうか?


それは、何も「誇り」や「尊厳」ほど大げさなことでなくても、その人の「好み」や「やりたいこと」のような、ごく日常的なことについても、同じことが言えるのだと思うわけですけれど、そういう、その人の「精神活動」の部分と、その人の「命」を秤にかけた場合、どちらが重くなるのかなと思うわけです。


例えば、すごくグルメな人が、医師に食事制限を命じられている場合、その人が、それで寿命が少しぐらい短くなってもいいから、食べたいものを食べようと思うことは、「命」を軽視していることに成るのでしょうか?

これは、お酒やたばこについても同じようなことがいえるのでしょう。


まぁ、実際は、医師の食事指導を守ったからと言って、長生きするとも限りませんし、酒やたばこを一切やらなかったとしても、それで長生きが保障されるわけでもありませんから(実は、私はこういう常識はほとんど信じていないんですけどね)、仮に、それで確実に長生きできるんだとしたらと言う仮定での話ですけどね。


こういうことには、そうそう結論は出せないんだと思いますけど、ただ、今は「命の重さ」が重視されるあまりに、「精神の重さ」が、捨てられ過ぎてしまっているように思うわけです。

つまり、「命の重さ」が重いのは言うまでもないことだとしても、「精神の重さ」もそれに見合うぐらい重いものなんだと思うわけです。


基本的には、好きなことをして生きて行って、その最期に死んだ時がその人の寿命なんじゃないかと思うわけです。

むしろ重要なのは、それが本当に、その人にとっての「好きなこと」や「やりたいこと」なのか?と言うことの方なんじゃないかと思うのです。


例えば、『酒を飲んでいる』のか『酒に飲まれている』のか、と言ったことですね。
好きな酒を『旨いなぁ』と言って飲んでいるのと、依存症のような状態で、美味いも不味いもなく飲んでいるのとは全く違うことでしょう。

それはともかくとして、もう少し「人間の精神」が重視されて、さらには、それが解放されて行ってもいいように思うわけです。


社会が作り出した「道徳」や「規律」は、理由があって出来上がってきたものでしょうから、それを守ることも大事なんでしょうが、「個人の精神」はそれに匹敵する程のものだとも思いますから、もう少し重要視されるように成ってもいいんじゃないかと思うわけなのです。


その「道徳」や「規律」を象徴しているのが、「命の重さ」なんだと思うわけです。
そして、「個人」を象徴しているのが「精神の重さ」なんでしょう。


どちらが重いかと言うよりは、『どちらも重いから、偏ってきたら戻す』と言いうことかなと。


そんな風に思います。


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