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「人間性の信仰」



私は、このブログの中で、人間は「宗教」を一旦卒業したほうがいいんじゃないか?と言っているんですけど、それは、けっして「宗教」を否定しようということでもないんですね。

またいつか「宗教」が必要になるのかもせれませんしね。


「神」とか「宗教」とかって言うものは、すでに人間の意識の中に存在していますし、それを消してしまうことは出来ないわけですから、無理に否定しても、あまり意味もないと思っていますし(出来たとしてもしないと思いますけど)、取り立てて、否定する理由もないので、そんなつもりは毛頭ないんですね。

   ※ここで言う「神」は「絶対的な存在」で、「宗教」はそれを「確信すること」です。


じゃあ、なんで、『人間は「宗教」から卒業した方がイイ』なんて言うのか?と言うことなんですけど、それは、「歴史」とか、「時代」の流れを見る限り、『いまは宗教じゃないんじゃないか?』と思うということなんですね。


たとえば、ついこの前まで「科学万能」のような「時代」があったわけですけど、今は、そうでもなくなってきているというようなことがあるわけですね。


実際は、「科学万能」に見えていた「時代」の中でも、「科学」に疑問はいくらでもあったわけですし、「科学」に懐疑的な意見を持っている人も、それなりには居たんだと思います。

それでも、その「時代」は、やはり「科学の時代」であることに間違いはなくて、その「科学の時代」を通り過ぎてきたことで、「今の科学への疑い」があるということですね。

それは、「科学を否定(肯定)すること」とは無関係に、否定できないことなんだと思うわけです。


つまり、「疑い」が、数の上で増えてきたということは、もうすでに、その「時代」が終わりつつあるということに成るんだと思います。


「宗教の時代」には、「宗教」に疑問を持つ人は、あくまで少数派で、ほとんどの人が「神」を「確信」できていたんだと思います。


でも、今は「神」を「確信」できる人は、そんなに多くはないと思うわけです。

「宗教人口」はそれなりに多いんでしょうが、昔と同じように「神を確信できる人」がどれだけいるかと言えば、やはり、少ないと言わざるを得ないと思います。


「宗教の時代」には、スタートの時点で、「神への疑い」がほとんどなかったわけですから、現在のように、常に「神への疑い」と隣り合わせの世の中とは全く条件がチガウわけですね。

「時代の流れ」に関しては、「疑い」がそこにあるということ自体が大きいことなんだと思うわけですね。
それは、その「時代」がすでに終わりを告げていることを意味するんだと思うわけです。


たとえ、「特別な精神」を持つ人が、「神」を確信できたとしても、それは、「人間」と言う集合体にとっては、「時代」を指し示す方向とはなりませんし、また、その人が説く「神」や「不思議」が如何に「道理」を得たものであっても、それが「絶対的な真理」でない限り、常に「時代」は、「その道理」を押し流していってしまうでしょう。


そして「絶対的な真理」のようなものは、常に確信されていますし、疑われるようなことは無いハズですから、すでに、「不動の原理」として当たり前のこととして存在し、肯定されているでしょう。


「疑われる」ということ自体が「真理」ではないということに成るんだと思います。
「真理」であれば、「誰にも疑うことすらできない」ということに成るハズですね。


実際には、「不動の原理」や「唯一無二の真理」と言った「絶対的なモノ」があるのではなく、あらゆる「取るに足らないモノ」が、すべて”ズレ”ながら、反転し続けて、流れているというのが、「この世界の様相」なんじゃないでしょうか?


そういう中で、「時代」は「常にヨジレながら進んでいる」ということなんだと思うわけですが、その「時代」には、その時その時で「ピーク(頂点)」があると思うわけです。

これは「イイ・ワルイ」ということとは、必ずしも関係なく、ただ単に「ヤマバ」ということなんでしょうね。


最も多くの人が、最も自然に、「誰からも言われることなく確信していること」それが、その「時代」における「ピーク」にあるものなんだと思うのです。


「宗教の時代」に置いて、「キリスト」や「ブッダ」のような人たちが、それぞれの「宗教」を広めたとも言えますが、その逆に、「神仏を信じる」という「時代の要求」に導かれて、それらの「宗教的指導者」が現れたとも言えるんだと思います。


つまり、彼らの説いた「教義」や「思想」が素晴らしかったからそれらの「宗教」が広まったと言うよりも、「その時代」が「宗教の時代」であったから、彼らが「カリスマ」的な立場につくことに成ったということなんじゃないかとも思います。


そして、現在すでに「神への疑い」は、間違いなく多くの人間の心の中に存在しています。

これは、「神」や「宗教」と言う概念が、すでに人間の心の中に存在しているというのと同じように、事実なわけですから、否定してもあまり意味はないでしょう。


「神を疑うこと」の方が正しいのか?

「神を確信すること」の方が正しいのか?

と言うことではなく、「疑い」が多くの人の心の中にあるということが「時代」を終わらせてしまうわけです。


もちろん、現在「神への確信」も間違いなく存在しているわけですが、それと同時に、ほとんどの人の中に「神への疑い」も存在していますから、それは「時代の確信」とは言えなくなってしまうということです。

「確信」と「疑い」が一人の人間の中に同時に存在しているという考えも、成り立たなくはないのかも知れませんが、基本的に「確信」は「疑い」を含まないことで成り立ちますから、「疑い」が増えて来ると成立しにくくなってしまうわけです。


そうなると、やはり、現在「神」を「確信」出来るのは、「特別な精神」を持った人に限られてしまうということです。

そういう時代の中で、いま、一番自然に、「一般的な精神」によって「確信」されることと言ったら、「人間」なんじゃないかと思うわけです。


「人間」が「人間」であると言うことが、いま一番「ピーク」にあることなんじゃないかと思うわけですね。


ただし、これは「現在すでに受け入れられている」という意味ではありません。

「時代のピークにあるモノ」と「現在受け入れられているモノ」が一致するのは、そのモノの「流れのサイクル」が比較的短い場合に限られるわけです。

つまり、それは「流行り」であって、「時代」よりも周期が短いものだと思います。
(数十年~数百年ではなく数年~十数年と言うスパンですね)

「時代」の周期は長いですら、「その時代」になってから、それが受け入れられるまでに、かなりの時間がかかるということなんでしょうね。

だから、そこには、かなりの”ズレ”が生じることがほとんどであって、場合によっては、「ピーク」が過ぎた後から「受け入れられる」ということもあるわけですね。

これらのことは、歴史の中ですでに証明されていることと言ってもいいんじゃないでしょうか?

 ※「時代」と「流行り」の違いは、そのスパンの長さの違いだけではなく、
  「安定性の差」だと思います。
  要するに、ほとんど「疑い」を含まずに、存在しているようなものは、安
  定して多くの人に確信されていますから、「時代」に受け入れられてい
  るということに成るんだと思います。
  たとえば「引力の法則」は「時代」に受け入れられているんでしょう。
  だから、「疑われること」が少なくて、「安定」しているということですね。
  それに対して、「流行り」の方は、爆発的に流行っているものでも、必
  ず、相当の数の「疑い」を感じている人が居るということでしょう。
  (例えば、「オカルト」や「スピリチュアル」は、流行っているときでも、
  疑いを持っている人がかなりいますから、「時代」にはなりにくいという
  ことだと思います)
  その「疑い」が「まったくのデタラメ」でなければ、結果的に、その「流行
  り」は、「時代」とは成らずに、短い期間で終わってしまうということです
  ね。

  これは、あくまで「それが正しいか?」ということではなく、『それが「時
  代」となるか?』ということについての話ですけどね。


まだ「人間」は「人間であること」を受け入れられていないようですし、「人間」と言うのが、どの程度のものなのかも、まだ理解されていないんだと思うのです。

しかし、そういったことを「人間」が受け入れたり理解したりしないと、前へ進めなくなってきていることは、まず間違いないことですし、自分自身が「ナニモノ」なのかを知る必要があるのは間違いのないことでしょう。

つまり、「人間自身」が「人間の不完全さ」や「人間の性質」を、受けいれたり理解したりする時期が来ているということなんじゃないでしょうか?


そして、その「ダメなところ」も含めて、「確信」したうえで、自分自身で、『それで、よし!』と言ってやる必要が出てきているんだと思うわけです。


今まで、世の中で「悪いこと」が起きると、『神様が居るなら、なんでこんなひどいことが起きるのか?』と言ってきたわけです。

そして、それに対する答えは決まって、『それも神様の采配の一つで、廻り巡って、人間にとって必要なことなんだ』ということだったわけです。


でも、これからは、『悪いことが起きるのは、人間が不完全なんだから当然のことだ』
『でも、もう、いいんじゃないか?それが人間というモノなんだから』
ということに成るということですね。
(だからこそ、そこを戒める必要もあるわけですが)


『そんなの、当たり前じゃないか?とくに言うほどのことじゃないだろう!』
と言われてしまうかも知れませんね。

でも、実は、人間には、

自分が「完全」であろうとしたり、

自分を「完全」だと思おうとしたり、

自分が「完全」だと言う前提で行動したりする、

と言うような習性があるわけです。


また、それができないとなると、「自分の外」に「完全なモノ」を設定して、それを崇拝する形で、なんとかして「完全」と言う「頼みの綱」を維持してきたわけで、人間が「自分」の「不完全性」を「イイモノ」として受け入れたことなど、過去には無かったんじゃないでしょうか?

常に、「不完全性」は「ワルイモノ」だったわけですね。


そういう「人間性」を「確信すること」が「今の時代」が要求していることのような気がしますね。
そして、それが「宗教」に代わる「信仰」に成るんじゃないのかなと。


「不完全な人間」が対称になるわけですから、「信仰」と言う言葉は当てはまらないのかも知れませんけど、
「確信する」と言う意味では「信仰」と言えなくもないと思うわけです。

「信仰」としては、かなりタヨリナイ感じですけどね。
それでいいんじゃないでしょうか?


「頼れるモノ」=「絶対的なモノ」を「確信」するというような、「そういう時代」が終わろうとしているということなのかも知れませんね。


「絶対的なモノ」を「確信」すれば、全ての責任は、その「絶対的なモノ」に移譲されます。

「不完全なモノ」=「人間」を「確信」すれば、全ての責任は、その「人間自身」に戻ってきます。
そこで「自分で責任を取ること」が要求されることに成るわけですね。


つまり、「人間」が「責任」を取らないとならなく成ってきたということなんじゃないでしょうか?
それが人間ができる範囲で、一番”マシ”なことなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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