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「鑑賞者」が「芸術」に加えるもの



「芸術」における「鑑賞者」の位置については、それを”受け身”であると考える人もいるでしょうし、「鑑賞者」が、今よりもっと「芸術」に”参加”できるようにした方がいいと考える人もいるのだと思うわけです。


ただ、そこで、参加してしまったら、その人は、単なる「鑑賞者」ではなくなってしまうはずですから、それを、「鑑賞者」と呼ぶことは出来なくなってしまうと言う問題が出て来るわけです。

それは、「体験者」または「共同制作者」ということに成るわけですが、どちらにしても、それらは「芸術」を鑑賞するのとは、少し違うことに成ってしまうのではないかと思ってしまうわけなのです。

例えばの話、「鑑賞者が参加することで完結する芸術」というのがありますけれど、では、その「参加者」に著作権はあるのでしょうか?

著作権の話はともかくとしても、本当のところは、その人が”受け身”の立場であると言うことは変わっていないように思うのです。

そこで、あくまで第一創作者と第二次的に参加した参加者の間に「格差」が出来てしまうのであれば、それは本当の意味で参加したことに成るとは思えないわけです。


そんな風に、参加したような気にさせられるだけなら、むしろ、「鑑賞者」としての立場が確立されていたほうがいいような気がしてしまうわけです。

そこに「能動的な受け身」と言う考え方があってもいいんじゃないかと思うのです。
つまり、「鑑賞者」というのは「鑑賞者」のままでも、「芸術」に対して能動的に働きかける”力”があるのだと思うわけです。

「芸術」に対して敢えて参加しなくても、「鑑賞すること」だけで、そこには、その「芸術」に対する解釈や理解や共感が生み出されます。

そして、それらの感性は、あくまで「鑑賞者の側」のもので、「創作者の側」のものではないわけです。


そして、それらの「鑑賞者の側」で生み出されたものと、「創作者の側」で生み出されたもの(=作品)とが、対峙することによって、
「芸術」による「感動」が生まれるということだと思うわけです。


例えば、「鑑賞者の側」で「創作者の側」が考えもしなかった解釈を加えることだってあり得るわけですし、「創作者の側」が自分でも気づかなかった「芸術性」を発見することだってあり得るわけです。

つまり、「芸術」においては、「作品」によって「感動」が生み出されているのだとしても、実は、その「感動」は「創作者の側」が一方的に創り出しているわけでも、一方的にコントロールしているわけでもないということです。

「芸術」はともかくとして、「芸術による感動」については、間違いなく「鑑賞者の側」が加えるものによっても成り立っているわけです。


こうした「鑑賞者の側」による作業は、確かに”受け身”でもありますが”能動的”でもあるわけです。


また、このような「鑑賞者の側」から加えられたものを受けて、さらに「創作者の側」も変化します。
その時は、「創作者の側」も、また、”受け身”でもあり”能動的”でもあると言うわけです。

こうした、「能動的な受け身」と言う立場が、「鑑賞者の側」から剥奪されてしまったのは、現代美術が、「ヒネリ」を加えることに偏りすぎてしまったからだと思うのです。

人がやったことの無いことや、新しいこと、画期的なことを追い求めるあまりに、本質を見失って、『ヒネッテ、ヒネッテ、ヒネリまくって』その結果、今自分たちがどこに立っているのかが分からなくなってしまっているんじゃないかと思うわけです。


「創作者の側」が自分の立っている位置を見失っていますから、「鑑賞者の側」が、それに対して「ストレートな解釈や共感」を加えることもできないわけです。


そこで、「鑑賞者の側」からは「能動的な受け身」の立場が奪われてしまい、「鑑賞者の側」は、「ただただアリガタク鑑賞する」か、または、「イミガワカラナイので放置する」というように成ってしまっているんじゃないかと思うのです。

つまり、「完全に受動的な受け身」になってしまっているわけです。


それを、前述のような「芸術に対する参加」と言う形で、埋めてしまうのは、ゴマカシではないかと、私は考えるわけです。


もちろん、「参加型の芸術」というものが、”イケナイ”と言う話ではなくて、それを、「鑑賞者」の立場と置き換えることは出来ないんじゃないかということですね。


やはり、ベースとして「鑑賞者」は「鑑賞者」として「芸術」に対峙するべきなんじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




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