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「本能」に近く、「欲望」から遠い



私は、「芸術」に対する自分自身の一つの指針として、『「本能」に近く、「欲望」から遠い』ということを考えているわけです。


『「本能」に近い』というのは、人間の根源的な部分に近いということです。
「心の一番深い所で感じるもの」ということですね。
これによって「普遍性」が生まれると思っています。


「欲望」と言うのは、人間が持っている欲求の中で「美しくないもの」だと思うのです。

たとえ、それが「本能」に近い所から発生していても、人間が、それを肥大化させて、自らそれに溺れてしまうことで、「本能」が持っている「真実性」が損なわれて「根源的な美しさ」が失われてしまうわけなのです。

したがって、『「欲望」から遠い』というのは、人間が自己を肥大化させて、自分の欲求に溺れてしまっている状態から遠いということになるわけですね。

これによって「真実性」が保たれて「根源的な美しさ」が生み出されると思っています。


現在の「芸術の在り方」は、非常に『「本能」から遠ざかって』しまっているように思うわけです。
反面、『「欲望」には接近して』しまっている傾向もあるように思います。

これを一言で『面白ければいいんじゃないの?』と言っているんじゃないかと思うのです。


要するに、「芸術」が「作者の個人性」の中に埋め込まれてしまっているんじゃないかと思うのです。
当然、それは、他人には理解しにくいものになってしまうわけですね。

もっと、普遍的で根源的なもの、言い換えるならば「本能に近いもの」ですね。
そういうところに「芸術」を引っ張り出してしまった方がいいんじゃないかと思うわけです。

「本能」は、ほぼ万人に共通のものでしょうから、多くの人に理解可能なわけです。

 ※これは「万人受けするもの」を作るという話ではありません。
  そういう「好みの問題」と言うよりも、それ以前の段階で、人に理解できる
  範囲で創作するということです。
  表現と言うのは、もともとそうしたものだと思うのです。
  「ウケル」かどうかは、そのあとの話でしょう。

そうした中で「本能に近い」ところに立ちつつ、『いかに”欲望にマミレナイ”ものを創り出すか』と言うのが、「芸術の立場」だと思っているわけです。

そして、この「本能」と「欲望」の駆け引きにおいて現れてくるものこそが、その人の本当の「個性」なのだと思っているわけです。


現在の「芸術」は、「作家の個人性」の中に埋没してしまっていますから、「普遍性」を持つことができません。

しかも、「作家の個人的な”欲望の表出”」こそが、「個性」であるとされる傾向がありますから、純粋に人の心を魅了するような「根源的な美しさ」を持つこともできません。

つまり、作家の自己が肥大化して、作家自身がそれに溺れてしまっていますから、もう、そこに「真実性」はないわけです。


これでは、「心の中心から湧き出る感動」は生み出されないと思うわけです。
それでも、それを「感動」と呼ぶことは出来るでしょうが、その「感動」が、人の心の中に占める領域は、あまり広くはないと思うのです。


どちらかといえば、人の心に残るようなものを「芸術」と呼んだほうがいいんじゃないのかなと。

そっちの方向で追究していったらいいんじゃないのかなと。


そういう風に思います。




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