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「神」への疑い



『「神」への疑い』についてです。

こういう話をすると、「信仰」をお持ちの方は、ご気分が悪いのかもせれませんが、宗教や信仰に対してケチをつけようというものではありませんので、また、私にとっても、一つの重要なテーマとして真面目に考えていますのでお許しください。


このブログの中でも何度か書いていますけど、私は、もう「神の時代」は終わっていると思うのです。
つまり、人間は「宗教」と言う概念を卒業して、自己責任で「人間」としてやっていく時が来ていると思うわけですね。


「神」などの「絶対的な存在」を設定して、それを中心にすべての観念を築き上げていくという世界観では、結果的には、人間がそこに依存してしまうことに成るように思うわけです。

つまり、何か「悪いこと」が起きても、それは「神のオボシメシ」ということになってしまいますし、「大自然の采配」ということになってしまいます。

これは「いいことが起きたとき」でも同じです。


必ずしも、安易な意味で、何でも「神様のセイ」にするということではありませんが、最後の最後の所では、どうしても、そこに持っていくことに成るでしょうし、また、そうでなければ、それは「神を信じていること」にならなくなってしまうような気がします。


確かに、「人間の遠く及ばない力」が存在していて、その力が、すべてを決定しているのは間違いがないことなのでしょう。
でも、それに人間が「神」などの「名前」を付けて、「信仰」の対象にしてしまうと、結果的に、それは「偶像化」して、その「偶像」に人間が依存することにしかならないように思います。

これは、その「絶対的な存在」を「神」と呼んでも、それ以外の「名前」で呼んでも同じことで、なんと呼ぼうと、それに「名前」が付けられて、「信仰」の対象になってしまうと、それは、「偶像化」してしまって、あとは、もう、それを「信じるか?信じないか?」しかなくなってしまうわけです。


敢えて「偶像」を作り出さなくても、「絶対的な存在」を設定すれば、それは、必ず「偶像」に成ると言うのが事実だと思うのです。

その過程で、「考えること」が抜けて、「信じること」にすり替わってしまいます。
「信じること」においては、「考えること」が、けっこうジャマになるんだと思います。


「考えること」は『「神」への疑い』を含んでいますから、「信仰心」が弱くなるんだと思います。

要するに、「無条件で信じる」というのが「信じること」としては一番強いわけですね。
しかし、それは「盲信」につながることに成りますから、カルト化してしまう傾向があります。

そこで、また、「考えること」に揺り戻されるということが繰り返されて来ています。


そうした過程の中から、「考える宗教」ということで現れてきているのが、「スピリチュアル」と言われているものなんだと思うんですが、「信じる」に近寄れば「考えること」は”スキップ”されますし、「考えること」は、必ずと言っていいほど『「神」への疑い』を生み出しますから、「信じる」からは、やや遠のいてしまうわけですね。


「信じる」ことで「考えること」が”スキップ”されてしまうと、「思考」は寸断されてしまいますから、「論理的」ではなくなってしまうわけです。

そういう「非論理性」は、結果として「考えないこと」に戻っていく可能性が高いように思うのです。
ひとたび”完全に信じて”しまうと、「考えること」は必要とは言えなくなってしまいますから、どうしてもナイガシロになっていくわけですね。

というよりも、「考えて信じること」よりも「考えないで信じること」のほうが、「信じる」の度合いが強いわけですね。

「考えて信じること」は、要するに「理解すること」と、ほとんど同じ事なので、「信じること」とは少し違うことになってしまうわけですね。

また、それ以前に、人間は「絶対的な存在」を「理解すること」はできませんから、そこで行き詰ってしまうわけですね。
それで、結局そこから先は「信じるか?信じないか?」に戻ってしまうということです。


せっかく「考える宗教」として表れてきた「スピリチュアル」も、「絶対的なものを信じる」という姿勢を、かなりのところまで捨てない限り、結果的には、「信じるか?信じないか?」という「二者択一」に帰結してしまうんじゃないでしょうか?


「スピリチュアル」は、もともと経典や教義のような形式を持ちませんから、その辺を、人それぞれに自由に解釈しているんだと思います。

一人一人の人が、『ここまでは”考える”で、ここからは”信じる”』という設定を変えることができるわけですね。
この「自由度の高さ」によって「スピリチュアル」が広まったんだと思います。


従来の「宗教」では、教義や経典に対する解釈の違いで、立場がはっきりと分かれてしまう傾向があって、それが争いの種にもなってきたわけですが、教義や経典を持たない「スピリチュアル」においては、言葉の上で、ナニを「絶対的な存在」とするかはあまり問題とされませんし、「無条件に信じる」の人と、「かなりのところまで疑う(=考える)」の人が共存できるということでしょう。


それは、「争いが減る」という意味ではイイことなんじゃないかと思いますが、最終的に、「信じるか?信じないか?」というところは残ります。


でも、本当の問題は「信じるか?信じないか?」ではなくて、「考えるか?考えないか?」なんじゃないかと思うわけです。
つまり、「考えること」の方に寄って行ったほうがいいんじゃないかと思うんですよね。


なにも、完全に「信じる」という「姿勢」を捨てる必要はないように思うのですが、その「信じる姿勢」が「絶対的な存在」に傾倒していくことには、やや問題を感じてしまうわけなのです。

そうなれば、どうしたって「考えること」を”スキップ”するように成ってしまうでしょうからね。


やはり、人間は「考える生き物」なんじゃないでしょうか?
というより、やっと考えられるようになってきたと言った方がいいのかもしれません。
むしろ、それすらも怪しくて、まだまだ、「言葉」すら使いこなせてはいないといってもいいくらいでしょう。

だから、もうちょっとシッカリ「考えること」ができるようになってから、次のステップへ進んだ方がいいんじゃないかと思うわけです。
そのとき、その次のステップが「信じること」であれば、それでいいんじゃないかと思います。

でも、たぶん、次にある「信じること」は、従来の「宗教」とはだいぶ違うものになっているんでしょうね。


いずれにしても、人間は、まだまだ本当の意味では「人間」にすら到達できていないと思いますから、「絶対的な存在」を、”見る”ことも”感じる”ことも”知る”ことも、そして、”信じる”こともできないと思うのです。

それは、まだ、人間には”高望み”なんじゃないかと思うわけですね。


つまり、いま現在、人間が卒業するべき「宗教」とは、「偶像崇拝」であり、かなり遠い将来になってから、人間が達成する「信じること」とは、「宗教」とは全く違うものなんだと思います。


現存するすべての「宗教」は、何らかの意味で「偶像崇拝」だと思います。
なぜなら、「偶像」がないと人間には、「信仰」の対象も根拠も見ることが出来ないからです。

「神」と言う「名前」だけでも、それは間違いなく「偶像」です。
”見る”ことも”感じる”ことも”知る”こともできないものを”信じる”ことは出来ないでしょう。
少なくとも、まだ、人間にはそれは出来ないと思います。


人間は、「見たもの」には「名前」を付けます。
「感じたもの」でも同じでしょう。

「名前」が付けられれば、十分に「偶像」と成り得るわけです。
そして、「偶像化」することで、人間が、それを見たり、信じたりすることが出来るように成るわけですね。


私は、こういったことから、「神の時代」を終わらせて、「人間の時代」を築いて行く時が来ているように思っているわけです。


それは、なにも、人間がエラクなって「神」に成り変わろうと言うことじゃありません。
むしろ、その反対で、弱さや不完全性を含めた「人間」を、人間自身が認めてやろうと言う話です。


そこで、やっと「イメージの中の人間」と「実際の人間」が一致して、人間が初めて「人間」として生きられるようになるんだと思います。

今は、いつも背伸びして、見栄を張って「立派な人間」のフリをしているんだと思うのです。

その「立派な人間」の「象徴化された似姿」というのが、、実は、「神のもう一つの本質」でもあるんだと思います。


そういう面からも「神の時代」を終わらせないと、進めないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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