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「拘束」を解かなければ「解放」されることはない



現代社会で生きるということは、この世に生まれた時点から始まる、さまざまな「拘束」の中で生き続けるということなのだと思うのです。


人間を取り巻く「拘束」や「束縛」は、現代に限ったものでもないのでしょうが、「教育」がシステム化することによって生み出されている「拘束」が非常に多いと考えますので、その「教育の制度化」が進んだ現代においては、一段と「拘束」が生み出されてしまう比率が高くなっていると思うわけです。


人間はほかの動物と違って、制度化された「教育」を必要とする生き物になっているわけです。
人間としての最低限度のルールや道徳といったものを身に着けるだけでも、「なんとなく親が教える」だけだと追いつかなくなっているわけで、やはり、それはシステマチックな「教育」による以外ないということに成るわけです。

ところが、この「教育」によって刷り込まれる概念が、ある意味では、人間を「拘束」するようになってしまうわけです。


つまり、システマチックに「教育」されますから、どうしても、それぞれの過程を表面的な理解で通過していってしまうわけです。
単なるルールとしてならば、、それでいいのでしょうが、本質を理解されずに無条件に刷り込まれてしまうので、応用が利かなくなってしまうことがあるのだと思うわけです。


そうして、その「教育されたこと」が時と場合によっては「拘束」となってしまうということなのでしょうね。


しかし「教育」の場で、物事の本質に至るところまでを、「教育」するということは、なかなかできないのでしょうから、自分が「解放されたい」と思うならば、一人ひとりの人が、あえて「拘束」を解いていかなければならないのだと思うわけです。


かといって、もともと生きていくために必要があって、「教育」によって与えられた「拘束」ですから、むやみに解き放ってしまうと、社会から逸脱してしまうわけです。

そこで、独力で物事の本質を理解することが必要になってくるわけです。
理解したうえで、「必要なこと」だけを残して、「拘束」になっている部分を切り捨てていけばいいわけでしょう。


いずれにしても、自分で「拘束」を解くという意識を持たないと、無条件に刷り込まれて潜在化した「拘束」を解くことは難しいのかなと。

つまり、「自由」が与えられていても、「自由」になれないということですね。


そんな風に思っています。





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