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「忘れること」



『人間は「忘れること」で生きていける』と言う話を、どこかで聞いたことがあるわけです。
(どこで聞いたのかは忘れてしまいましたが)


これを聞いたときは、確かにそうだなと思いましたし、実際、過去の全ての「記憶」がいつも頭の中で渦巻いていたら、『とてもじゃないけど、生きていけないだろうな』と思うわけですよね。


これとはちょっと違う話なんですけど、最近になって、「忘れること」っていうのは、「記憶が消えてしまうこと」とは違うんじゃないかと思うように成ってきたわけです。


そして、今に至っては、『本当は、人間の「記憶」が消えてなくなってしまうことは、ほとんど無いんじゃないのか?』とすら考えるように成りました。

『そんなことは無いだろう』と思っていたんですが、例えば、忘れていると思っていたことを、突然『ポンッ!』と思いだすことっていうのがあるじゃないですか?
それから、それとは逆に忘れているハズがないことを「ど忘れ」することもありますよね。


そういうことっていうのは、「記憶」が「不活性」な状態に成っていることと関係があるんだと思うわけです。

つまり、「忘れること」と言うのは、「記憶が消えてしまうこと」ではなくて、「記憶」が「不活性」な状態に成っているんだと思うわけです。


まぁ、たぶん、こういうことは「脳科学」なんかでは、説明されていることなんだと思うんですが(本を読んだりしたわけではないので、よくわかりませんけど)、それを、自分なりにナントナク実感できたということだと思います。


そこで、考える事なんですが、「記憶」と言うものは、一般的に考えられているよりも、ずっと「ハードウェア」なものなんじゃないだろうか?という感じがするんですね。

つまり、人間の「記憶」も、「記録」が刻まれたテープやフィルムと同じようにかなり「物質的」なものなんじゃないかということですね。

そして、それは「脳科学」なんかで説明されているような、デリケートで複雑なシステムではなくて、もっと、単純で頑丈なもののような気がしてしまうわけです。

脳と言うよりも、骨や筋肉と同じような感覚で捉えるべきものなんじゃないかと思えて来るわけですね。
(骨や筋肉だって複雑なんでしょうけど)

さらに言うと、そこが「記憶」と「思考」の”分かれ目”でもあるんじゃないかなと。


もちろん、「記憶」だって、脳で行われることなんでしょうが、「丸暗記」であればあるほど、それは「身体的」なものに近くなっていくんじゃないかと思うわけです。


つまり、脳内で本当の意味で「ソフトウェア」的に、「精神的」な作業として、行われているのは「思考」であって

「記憶」は、それとは根本的に違う「仕組み」で行われている、「身体的(物質的)」な作業なんじゃないかと思うわけです。


要するに、「記憶」は、場所としては脳内で行われる作業であっても、脳を、より「身体的」に使った作業なんじゃないかなと。
そして、「身体的」であるからこそ、頑丈で消えにくいんじゃないかと思うわけです。


よく、スポーツでは『体で覚えろ』と言われますけど、あれなんかも、脳を「身体的」に使っているんだと思うんですね。

要するに、反復練習することで、「思考」を通さずに反射的に反応出来る回路を脳内に作っているんでしょうね。
「記憶」にも、それと似た「身体性」があると思うわけです。



それで、何が言いたいかと申しますと(前置きが長い!)、いわゆる「認知症」についてなんですね。


「認知症」の人と言うのは、脳の機能が低下してしまって、記憶力や思考能力が衰えてしまっているということに成っているわけです。

でも、もともと「記憶」と言うものが「身体的」な作業であるならば、その機能低下と言うのには、「運動不足」のような性質があるんじゃないかと思うわけです。

また、「論理思考」についても、生活に必要な最低限の「論理思考」などは、「思考」と言うよりも、むしろスポーツの「反復練習」と同じように、この「身体的」な作業に入るという可能性もあるんじゃないかと思うわけです。


つまり、言われている「脳の委縮」みたいなものは、筋肉や骨格で言えば、「運動不足」で衰えている状態であって、歩いたりするような、日常の動作ができなくなるほどの機能障害と言うほどではないケースもけっこう多いんじゃないかと思うんですね。


違うのは「脳細胞は再生しない」と言われていることなんでしょうか?


でも、人間の脳は、むしろ大き過ぎるくらいですし、現代人は、その肥大化した「脳」に拘束されているとも言えるわけですから、多少の「萎縮」は、実は、そんなに大きな問題でもないような気もするんですね。


そういう「機能障害」とまでは言えないものまで、ほぼ同列に「認知症」とされてしまっているように思います。


症状の進行度合いとしては捉えられているんでしょうが、それが、ちょっと極端に単純化されていると思うんですよね。


「単なる運動不足」と「筋肉が委縮してしまう難病」みたいなものが、ダイレクトにつながってしまっているような違和感があるわけですね。

実際に、「認知症」で「記憶」が曖昧に成ったり、たった今やっていたことを忘れてしまったりする人が、昔の「記憶」や自分の好きなことについてはよく覚えていたりすることはよくあるでしょうし、また、「認知症」で意味のつながらないような話をしている人が、時として、思考的な水準の高い話にも対応できることもあるなんて言うことも聞いたことがありますし、「認知症」=「全体的な脳機能の低下」でもないような気がするわけです。


これは、私の勝手な憶測ですけれど、そもそも「認知症」と言うのは、「脳の身体的な使用」に関する「機能の不活性化」ではないかと思うのです。

つまり、必ずしも、本当の脳機能、すなわち「精神活動」における機能低下ではなく、むしろ、「身体的な活動」における機能不全に近い症状なのではないかと思うわけです。

ただ単に、その「身体的な活動」の場が「脳内」であるということなんじゃないのかなと。



そして、解り難くなって申し訳ないんですが、ここで話が一番初めの所に戻ります。


『人間は「忘れること」で生きていける』と言うところですね。

要するに、現在の高齢者の置かれている環境が、『忘れないと生きていけない!』ということなんじゃないですか?』と言いたいわけです。


つまり、現在の高齢者は脳機能全体が低下したことで「認知症」に成っているというよりも、むしろ、『忘れないと生きていけない』から、敢えて、「忘れること」=「記憶の不活性化」を選択しているんじゃないかと思うのです。

つまり、脳機能の一部を「不活性化」することで、「生きて行ける」ようにしているということですね。
そうやっているうちに、知らず知らずに「運動不足」に成って、「脳の身体的な使用に関する機能」が、急激に低下して行ってしまうというパターンが、実は、一番多いんじゃないかと言う気がするんですね。


これは、高齢者が、それを”ワザト”やているという話ではありません。
無意識のうちに、そういう状態に追いやられているということだと思います。


要するに、現在の高齢者が尊敬されていないということだと思います。
(身近な人からの尊敬と言うよりも、「社会一般」が高齢者を尊敬していないということですね)
それで、高齢者が人間としての尊厳をもって生きていける領域が狭くなってしまっているわけです。
だから、「脳を不活性化して」、「ギリギリの尊厳」を保とうとしているんじゃなかと思うのです。


それは、正しい選択とは言えないのかも知れません。
それによって、さらに”痴呆扱い”されてしまうわけですから。

でも、人間としての尊厳を与えられない人間と言うのは、往々にして、そうした”自暴自棄”な間違った判断を下してしまうものなのかも知れません。
(これも、意識してと言うことではなくてですね)


例えば、「社会的な差別」や「社会的な貧困」などのような、自分の力だけで抜け出すのが困難な問題を負わされた人は、『その環境の中でも最善を尽くす』という人と、「犯罪」や「依存症」のような”自暴自棄”に陥ってしまう人の両極に分かれてしまうものでしょう。
そういう時に、自暴自棄になるのは、むしろ当然の結果であって、それを責めることには意味がないと思うわけです。


もちろん、高齢者の場合は、それだけではないのだと思います。

年を取っていますから、当然、身体的に衰えているわけですし、それと同じように、身体の一部としての「脳」も衰えてはいるのでしょう。

でも、それだけだとも思えない兆候がたくさんあることも事実なんじゃないかと思うわけです。


そこで、またまた、話は変わりますが、「サヴァン症候群」と言われる人が居ますけれど、これもよくは知りませんが、彼らは、おそらく、「記憶」などの能力が突出してすぐれているというよりは、「記憶を不活性化する為のシステム」が機能していないのだと思います。

要するに、いつも過剰なまでに「活性化」した状態にあるわけでしょうね。

 
つまり、人間の「脳機能」は完全に「活性化」されれば、一般人の能力でも「サヴァン並」なのかも知れないということです。

また、それとは逆に、どんなに優れた能力を持っていても、それが「不活性化」されてしまえば、いわゆる”ボケた”ようにしか見えないでしょう。

そういうのが「認知症」と呼ばれているものなのではないかと思うわけです。


いずれにしても、全ての人が年を取るわけですから、年寄りが幸せでない社会と言うのは、全ての人が「いい死に方」ができないということです。


生きている時はともかくとして、全般的に「死ぬ時は不幸」と言うのはどんなもんなんでしょうね?


出来れば、自分が年寄りに成る前に「年寄りを尊敬すること」をおススメしたいですね。
やっぱり、自分が年を取ってから「尊敬しろ」と言ったんでは、自分の都合だけで『年寄りを尊敬しろ!』と言っていることに成ってしまいますからね。

それじゃあ、いくら『尊敬しろ!』と言っても尊敬されませんよね。

いま、そういう「悪循環」が起きているんじゃないでしょうか?


そんな風に思ってしまうわけなのです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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