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「認知症」について



4月19日の記事の続きに成ります。


「認知症」っていうのは、いま言われているのとは少し違うものなんじゃないかと思うわけです。

 ※前の記事で、高齢者が意図的に選択して”ワザト”「認知症」に成っている
  とも取れるような言い方になっていたかもしれませんが、そういうことではあ
  りません。
  あくまで、本人は無意識のうちに「認知症」と言う選択肢を選ばされてしまう
  という意味です。


まず、「認知症」と言うのは、いくつかの種類に分けられているようですが、「脳」が委縮したり、変性したりすることによって、「脳機能」が低下して、「認知障害」が現れるという点では、ほぼ共通なんだと思うわけです。

でも、前の記事で書いたことですけど、場合によっては、それが根本的な原因でもないんじゃないかと言う気がするんですね。


「脳の委縮」などによる「機能低下」、そういう医学的なことよりも、「社会的な影響」の方が大きいんじゃないかと思うんですよね。
むしろ、その結果として「脳機能」が低下するような状態に至ってしまうのではないかなと。

つまり、「認知症」のかなりの症例は、「医学」とともに「社会学」の守備範囲でもあるんじゃないかと思うわけです。
と言うよりも、ケースによっては「医学」をもって判断を下すこと自体が、”見当違い”な場合すらあるんじゃないかと思うんですね。


例えば、「すさんだ環境」で育った人間が、「すさんだ考え」を持ってしまうことが統計的に多かったとしても、それは、「医学」ではなく、「社会学」や「社会心理学」の範囲で考えるべきものでしょう。

もし、その「すさんだ考え」が「病的」と言えるほどのものであれば、それを、一種の「病理」と捉えることもできるでしょうが、あくまで「社会的現象」があっての「病」でしょう。


現在の「認知症」には、それと同じような性質があると、私は考えるわけですね。


そもそも、人間は、本来与えられるべきもの、例えば、「両親の愛情」とか、「最低限の環境」とか、「成長に必要な食糧」などですね、それらが与えられずに育った場合、必ずと言っていいほど、その人の人生に「影響」が現れてくるものでしょう。

それらのことを、全てその人の責任とは言えないでしょうし、その人本人の力だけでは、その「影響」を排除することは困難なのだと思います。
(稀には、それができる人もいるでしょうが、それはまた別の話でしょう)


そして、それと同じように、高齢者の「認知症」についても、高齢者に必要最低限の「尊敬」や「役割」が与えられていないから、その「影響」が出てきているのだと考えるわけなのです。

そして、そこから本人の力だけでは抜け出せなくなっているわけです。


『そういうのと、「脳の委縮」みたいなものは違うだろう』と言われるのかも知れませんが、実際に、幼い時期に「愛情」が与えられなかっただけでも、「脳の発達」に限らず「身体的な発達」にだって影響が出ることも、十分にあり得ることだとなんだと思うわけです。

違うのは、「子供は発達期間」にあるのに対して、「高齢者は衰退期間」にあるということです。
どちらも、状態として「壊れやすい期間」にあるということは同じなんじゃないでしょうか?

要するに、そういう「壊れやすい期間」に、必要な環境が与えられないことによる「影響」が、「認知症」として現れてきている症状なんじゃないかと思うわけです。


もちろん、「脳の萎縮」による「認知症」と言う側面はあるでしょう。

でも、それは、あくまで結果として「脳萎縮」が「加速度的進行」に至るということであって、原因としては、むしろ、社会の中で高齢者が置かれている立場による「[影響」の方が、大きいんじゃないかと思うわけです。


『頭を使っている人は”ボケ”ないんだ』などと言われていますけれど、それに当てはまらない事例はとても多いと思うのです。


私は、『歳をとることを心から”尊敬”している人が”ボケ”ないんだ』と思っています。
言い方を変えれば、『”ボケること”を”尊敬”していれば”ボケ”ない』ということなのかも知れません。

まぁ、”尊敬”していれば”ボケること”をコトサラニに恐れる必要も無く成るのかも知れないですけどね。


社会が「高齢者」を「尊敬」していない現在の状況の中では、個人としては尊敬されていて「頭を使っている人」でも、本人が「歳をとること」を「尊敬するべきもの」として捉えることが難しくなっているわけですね。


やはり、高齢者に対する「尊敬」と言うのは、「必要最低限のもの」と考えた方がいいんじゃないかと思うのです。


個人的に「尊敬できる人」もいれば「尊敬できない人」もいるのは”当たり前”ですが、やはり、「高齢者全般」は「社会全般」から「尊敬される存在」であった方がいいんじゃないかと思うわけです。


これが徹底されれば、「認知症」は減ると思いますし、それが出来なければ、「認知症」は減らないと思います。


もし、こういうことが社会的に徹底されて、

それでもなお、残った「認知症患者」が居れば、その人だけが、本当の意味での「認知症」なんじゃないのかなと。
(かなり、少なくなると思いますけど)


そんな風に思っています。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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