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「時代」が動いて行く方向



「時代」が動いてゆく方向と言うのは、かなり先のことまで、前もって決まっているものなんじゃないかと思うのです。


そもそも、「時代」と言っていますけれども、その「時代」と言うものは、人間の意識の中にしかないわけで、時間や歴史と言う感覚を持っていないであろう人間以外の動物は、おそらく、「時代」ということも感じていないんだろうなと思うわけです。


要するに、「時代」は「社会」の中にしか存在しないんだと思うわけです。

群れを作る動物の集団にも、「社会」はあるのでしょうが、人間の目には、そこに「時代」が意識されるほどの大きな変化はないように見えてしまいます。


つまり、「時代」とは人間社会に固有の感覚だと言えるんじゃないかと思うわけです。


さて、そこで、「時代」が動いて行く方向ですが、それは、その「時代」を形成している「社会」の意識が向いている方向へ向かって行くわけです。
と言うよりも、むしろ「社会」が向いている方にしか行かないと言った方がいいかも知れません。

まぁ、「社会」が「時代」を作っているわけですから当然そうなるわけでしょうね。


そこで、「社会」の向きはどこで決まっているのかと言えば、たぶん、歴史の流れの中で、かなり前の時点で決められているように思うのです。


例えば、「コペルニクス」の百年前に「地動説」を唱える人が現れていても、

それは、「時代」に受け入れられることは無かったんだと思うわけです。

百年前にも、「コペルニクス」と同じぐらいすぐれた学者は居たんでしょうが、

その人は「その時代」が求める「ほかのこと」を研究していたんでしょうね。


だとすれば、「コペルニクス」が「地動説」を唱えたと考えることもできますが、

「時代」が「コペルニクス」と言う頭脳に働きかけて、

「地動説」を発見させたと考えることもできるわけです。


「社会」の意識は、そう簡単には変わりませんから、「大きな変化」が受け入れられるには、その前の前提となるような、「微妙な変化」の積み重ねが必要なわけです。

その「微妙な変化」が無ければ、それが受け入れられることはありませんし、その「微妙な変化」が積み重ねられて行けば、必ずそちらに「時代」が動いて行くということなんだと思います。

つまり、その「微妙な変化」の段階で、先に行って「時代」の流れとなるような「大きな変化」が、既に決まっているということでしょう。


ただ、「微妙な変化」の段階では、「大きな変化」が、いつ起きるのかとか、それがどんな形で現れるのかと言ったことが、なかなか分かりづらいということなんでしょうね。
それで、みんな「いま」に合わせて生きていくわけです。

そして、それは概ね正解なわけです。
それで、生きていくのに十分ではあるわけです。


でも、それだと、他の動物との違いがないわけです。
つまり、人間にしかない「時代感覚」が抜けているんでしょうね。


「いま」に合わせることは、一見「時代」を感じ取っているようですが、実は、その人が感じているのは「時代」ではなく、

あくまで「いま」であって、それは「時代」の表層に張り付けられた、ラベルのようなものにすぎませんから、中身のある「時代」を感じ取っているとは言えないのでしょう。


それだと、”生きていく”のには十分でも、”人間として生きていく”のには、やや不十分なのかも知れませんね。

もちろん、他の動物がダメだっていうことじゃありません。
それに、流行という「いま」を追ってはいけないということでもありませんが、それだけだと、飽きちゃうんじゃないかと思うわけです。

やっぱり、「人間」は「人間」と言う「種」ですから、より「人間]らしい方がよりいいんじゃないかと思うわけです。


だったら、「人間」だけが持っている「時代」を意識するという感覚は、持っていたほうがいいんじゃないのかなと。

そんな風に思ったりもするわけです。





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