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「脱マネー」「脱ホウリツ」:「金や法」を「有機的なもの」に還元すること



今の時代と言うのは、「経済」と「社会」が両方とも行き詰ってきていると思うのです。
そして、今後、この状況が長期的に上向きに転じることは無いのだと思います。


「経済」も「社会」も、過去においては、何らかの「格差」を抱えていたわけです。

そして、その「格差」の「下」から「上」への「一方向の利益の流れ」が、「上に居る国」の「景気」や、「社会的安定」を作っていたんだと思います。


つまり、「上に居る国」が「下に居る国」とのあいだの貿易上の「格差」や政治的・軍事的な「格差」を利用して、最終的な利益の落ち所が、自分の国に成るようにしていたということでしょうね。

しかし、徐々にではありますが、この「格差」が埋まりつつある現在、このような「下」から「上」への流れは作りにくくなっていて、景気が急に上向きになるのは、局地的な「バブル経済」においてのみであり、それもまた、その国の規模に見合った所で、必ずや終息するわけですから、長く続くことは無いわけです。


もともと、このような「一方向の利益の流れ」と言うのは、「弱いもの」から「強いもの」への一方的な「吸い上げ」でもあったわけで、それが、人類全体にとってどれほどのものだったのかと言えば、何のプラスでもマイナスでもなかったのだと思います。

「格差」が少なく成ったことはいいことのはずなのに、なんで、行き詰っているのか?ということですが、それは、たぶん、「格差」を前提とした「システム」を使い続けているからだと思うわけです。


要するに、「脱格差」のための「脱マネー」と「脱ホウリツ」を図る必要があるんだと思います。


ただ、ここで言う「脱マネー」とは、「脱通貨」とは少し違います。

「通貨」と言う言葉は、「代価」という意味が強いと思いますが、「マネー」は、「貨幣」や「紙幣」など、文字通りの「お金」ですね。
「マネー」も「代価」ですが、それはさらにある種の「絶対価」でもあるということで区別しています。


例えば、「不動産」や「証券」などは、ある程度「代価」としての価値を認められていると言えるでしょう。
その意味では「通貨」と同じ機能を持っているということもできると思います。
昔なら、「米(こめ)」だって「通貨」のような機能を持っていたんだと思います。

つまり、昔は「有機的な通貨」があったわけです。


そういった意味を含めて、「流通することが出来る価値」を、ここでは「通貨」と呼ぶことにいたします。


なんで、そんなマワリクドイ話になってしまうのかと言えば、「通貨」を「マネー」とは違う、「有機的」なものにしてほしいと言う考えからなんですね。

それから、ついでに言うと、「法」も、もう少し「有機的」にしてもらいたいと思っているわけです。
それを「脱ホウリツ」と、ここでは言っています。


現在の「お金」と「法律」が、あまりにも「無機質的過ぎる」ということだと思います。

   ※2014年5月21日及び2014年7月31日の記事で、
     これについて、もう少し具体的に書いています。


つまり、「マネー」=「お金」に関して言えば、「お金」が絶対的なものになってしまっていて、人間が「金の奴隷」と化しているわけです。


また、「法律」についても、「法の文面」や「判例」ばかりが重視されて、「法」に『天網恢恢疎にして漏らさず』の原理が成り立たなくなっているわけです。

その結果、「金がモノを言う世の中」に成り、表面上の「法」さえ守っていれば、「悪の精神」を持っている者でも、まかり通ってしまう世の中に成っているわけです。


この状況を打開するには、「金と法」の「無機質的な性質」を、「有機的」に還元する必要があると思うのです。


まず、「お金」は「無期限の価値」を与えられていることで、「絶対」となってしまっています。
「法」は偶然性を排除されていることで、「無機的」に成っています。


これまでは、「格差」を前提としてきたために、これらの「絶対価」や「無機質性」が、「上に居る者」にとって都合のいいものとして利用されてきたわけですが、もう「格差」を望む者は少なくなっていますし、それを望む者にとっても「格差」は有効な手段とは言えなくなってきているわけです。


まぁ、それで行き詰っているわけですが、この「絶対価」と「無機質性」が「有機的」なものになれば、おそらく、人間にとって、もう少し緩やかな世界が実現されるのではないかと思うのです。


もちろん、これは「濡れ手で粟」と言ったものではなく、あくまで、「そこそこ居心地の良い社会」ということでしょうが、もう、それで十分なんじゃないかと言う気もしますから、この辺が、今の時代の「落としどころ」なんじゃないかと思うわけです。


とにかく、「金と法」と言う、社会の状態を決定してしまう二つのものを、「格差」前提のスタイルから、「非格差」前提のスタイルへとシフト・チェンジすることで、社会全体が、だいぶユルイ感じになるんじゃないかと思っているわけです。


前に書いた記事でも言ったことなんですけど、残念ながら、私にはどうやるのかわからないんですが(たぶん、デジタルな感じ?)、「通貨」に、何らかの形で「ゆるやかな有効期限」が設定できたら、「通貨」は「有機的」な機能を持つことが出来るんじゃないかと思います。


早く使わないと「価値」が下がって行く「通貨」があれば、みんな早く使うでしょうし、いいものには惜しみなく「代価」を支払うでしょう。
逆に、質の悪いものには見向きもしなくなると思います。
そんなことをして、お金を残してもドンドン価値が下がっていってしまうわけですからね。

 ※この「期限付きの通貨」と言うのは、よくネット上で流通しているポイント
  のようなものとは根本的に違います。
  そういうことが出来るかどうかは、まったく抜きの話としてですが、「国が
  発行する通貨」と言うことです。
  さらに言えば、世界全体の「通貨」に対する概念の問題でもあります。
  いくら、「期限付きの通貨」があっても、他のところで「無期限の通貨」も流
  通していれば、どうしたって、そちらに食われてしまいますから、「通貨」と
  いうものは「期限があるものなんだ」ということが概念として確立されなけ
  れば、意味をなさないわけですね。

これは当然「労働」にも反映されていきますから、「質の高い仕事」が評価されるように成って行きますし、「質の低い仕事」は、少しぐらい効率が良くても評価されなくなるでしょう。


今の社会では、「そこそこの仕事」を「なんとなく要領よくこなした人」が「シゴトができる」と言われますが、意外なほど「質の高い仕事」は評価されていなかったりします。

その「質」が「非効率的」と判断されることが多くなるわけですね。
こういったことが、「社会」を停滞させて、「行き詰まり」を生んでいます。

要するに、「個人が持っている能力」が眠らされてしまうわけですね。


また、「法」に「偶然性」や「個別性」が導入出来たら、それもまた、「有機的」な性質を持つようになるでしょう。


「法律」としては「成文法」であったとしても、そのシステムのなかに「偶然性」や「個別性」を取り入れれば、「犯罪の抑止」にもつながるでしょうし、そこに「法の精神」は復活されるでしょう。


例えば、自分が犯罪者だとして、どの程度の犯罪を侵せば、どの程度の罪が下されるかが解っていれば、きっと、「チョロイモンだ」と思うでしょう。

でも、どんな罪が下されるか見当が付かなかったら、けっこう恐ろしいと思うでしょうね。
それに、自分が特に嫌なことで罪を償わされるとしたら、やっぱり、たまらないですよね。


それから、これと同じような感じで、刑法と民法の境界線もゆるい方がいいんじゃないかと思いますね。

今は、「刑事事件」にならないようなことだと、チョットくらい「悪いこと」でも平気でやる者が居ますからね。
「法律スレスレ」っていうやつですね。


それに、「警察の民事不介入」によって「犯罪」が「野放し化」していることも多いと思います。


そういうことで、「犯罪」や「悪事」が抑止できれば、今より少し平和になるかなと思います。
(これは「犯罪者」にとっても、結果的にはプラスだと思いますね)


「犯罪」や「悪事」が、あくまで未然に防がれなければ「法の機能」としては”ダメ”なんだと思うんですね。


現在の「法」は、「無機質化」しているために、根底にある「法の精神」が眠ってしまっているわけです。
それで、「個人の善意」も眠らされてしまっているんだと思います。
だから、「起きてしまった犯罪」にしか対応できないんだと思うのです。


そして、こういうことが、「人間の善意を呼び覚ましてくれたらなぁ」と期待したりもします。


以上のことから、「金と法」を「有機的なもの」に還元してくれる人がいたら、『その人はエライ!』と思います。

スイマセン、それだけです。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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