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【芸術の20世紀喪失宣言】:「はじめに」の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリの最初の記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います)


「はじめに」と言う項目では、以下の「宣言文」が、なんの地位も立場もない「わたし」という人間が書いたものであるということ、そして、そんな「わたし」が「自己作品」を通して「芸術」に深く関わって行こうとしていること、その上で、どうしてもこれを「宣言する必要」があったということを述べたつもりです。


『「芸術」に関わる者には「人間や社会を解放する役割」がある』とか、『単なる「娯楽」であるとは思っていない』などと書いてありますが、これは、ほとんど「わたし自身」への言葉でもあり、また、「芸術の中心」を想定した上で、その「芸術の中心」に近づこうとする者への言葉でもあります。

これは、決して「芸術」を狭い範囲に閉じ込めようという考えや、「芸術」を自分の都合のいい所に位置づけようという考えで言っていることではありません。


「芸術」を自由な状態に設定するということは、「芸術の外郭」を解放した状態にするということです。

その時点で、「なんでも芸術たり得る」ということです。
そんな状態の中で、「芸術の中心」をも規定しなければ、そもそも「芸術」と言う分野自体が存続することは不可能です。


『なんでも芸術たり得る』けれど『芸術の中心に近いものと遠いものがある』と言う、最低限の設定が無ければ「芸術」は霧散して消失してしまうでしょう。

現に、今もって「芸術」が存続しているのは、『「芸術」がそこにあるハズ』と言う人々の思い込みによる所が大きく、実体としては、全ての人の中の「それぞれの芸術」が全部「違う芸術」となってしまっていると言えなくもないのです。

このことは、言葉の上ではとても自由でいいことのように聞こえてしまうかもしれませんが、まずもって、人と人が共通の「芸術」について論じ合うことが出来ないという致命的な状態であるともいえるわけで、そこでは、皆それぞれに『私はあれが好き』 『私はこれが嫌い』と勝手に言い合っているだけで、そこに「芸術」と言う共通言語はすでに失われてしまっていると言ってもいいほどなのです。

『それでいいじゃないか、どこが悪いんだ?』と言われれば、「悪い」とは言いません。
しかし、それはすでに「芸術」と言えるものではなく「なんとなく好きなアレ」であり「どことなく嫌いなソレ」にすぎないわけです。

「外郭」もなく「中心」もなければ「漠然とする」のは当然のことです。
そんな「”漠”としたもの」を誰が懸命になって創り出そうとするでしょうか?

必然的に、それは「適当に、あるいは軽い気持ちで創られたモノ」に成って行くでしょう。

『ウレルためなら、いくらだって懸命に成るさ!』と言う人も居るに違いありません。
しかし、そういうモノを「芸術」と呼ぶ必要はあるのでしょうか?

そんな風にして、「規定されないもの」と言うのは消えていくのだと思います。


そんな理由から、私はこの序文で、改めて、「芸術」の責任を問い直し、「芸術の中心」というものが「存在するに違いない」ということを明らかにしようと提言しているというわけなのです。



それから、ここで『この「宣言」に書いてあることが「あたりまえ」に成っていくと思っている』と書いていますが、これは、この「私の宣言」に限って言っていることではありません。

このような考え方は、すでに、その種子が人々の心の中に蒔かれていて、発芽するのを待っている状態なのだと思っています。
それらが発芽するのにつれて、必然的に、それは広まっていくものと思っておりますし、その流れが止まることもないと思っております。

そして、これは、将来に起こって行くことと言うよりは、すでに起こりつつあることであって、現状においてある程度進行していることだとも思っています。

ですから、この「私の宣言」は、そんな中の「一つの種」なのだと思っています。
それが『発芽しましたよ』と言っているわけですね。

ただ、誰一人『発芽しましたよ』と言わなかったら、また、せっかく芽が出ているのに「水をやること」すらしなかったら、その「新芽」は誰にも気付かれることなく、枯れてしまうかもしれません。

やはり、それぞれの人が”何か”をすることは必要なんだと思います。


その”何か”に当たるのが、私の場合、この「宣言」であったわけなのです。



最後に、それぞれの国の人が、自国を中心と考えることが出来るように成ればいいというようなことが書いてあります。


これは、決して自己中心的な考え方で言ったことではありません。
『自分を中心に据えて理解することで、はじめて他人のことを理解できるんじゃないですか?』
と言ったようなことです。

まだ、人間には、ダイレクトに「他者」を理解することは、できないような気がします。


ですから、必ずしも日本だけを特別扱いにしようというつもりはありませんが、いま、日本の社会や文化は「西洋」と「東洋」のちょうど「真ん中」に立たされているように思うのです。

その結果、日本の伝統的な文化や風習が寸断されてしまったことは残念なことですが、その代償として、日本人は「東西の二つの規範」を知る「立場」を手に入れたように思うのです。

現時点で、それは「中途半端な立場」にすぎませんし、今のところ、それは、むしろマイナス方向で作用していると思いますが、そこに「人間の迷う姿」と言う「意味」を加えることが出来れば、「二つのモノ」が融合されて、きっと「ナニカ」が生まれるんだと思います。


そして、それこそが、「いま芸術が追究するモノ」なんじゃないのかなと。

そんな風に思うわけです。


長くなってしまいましたが、こんなことが、ここで私が伝えたかったことなのです。






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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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