FC2ブログ

4.100年回帰の根拠:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


この項目では、主に≪芸術の20世紀≫を喪失するにあたって、時代を「100年回帰」することの理由を述べています。


前の項目からの続きに成りますが、≪芸術の20世紀≫に生み出された「コンガラカッタ糸」=「混迷の渦」は、すでに、それを解こうとする者を飲み込んで押し流してしまうだけの力をつけてしまっていて、そこに真っ向から立ち向かって行くことは、自然の脅威に対して歯向かうことのように無謀なことであるということ。

そして、「混迷」に惑わされずに「マトモな考え」で「判断」を下すためには、まだ、「混迷」に晒される以前の「時代的な規範」を取り戻す必要があるだろうということをこの項目で訴え掛けております。


そして、それに必要な「喪失」の期間として、「100年間の回帰」を提案しているわけです。


ただし、ここでは、「回帰の必要性」を訴えることを重視したために、あたかも、『「100年前の規範」がとても理想的なものであるから、そこに「回帰」すべきである』と言っているような文面になってしまっているかも知れませんが、実際は、「100年前の規範」が、理想的なものであったとは言っていません。


むしろ、伝統の中で「固着」してしまったようなものであったかもしれませんし、何より、それらが論理的に確かめられる機会などは、ほとんどなかったと思われますから(疑われること自体が無かったでしょうから、確かめられる必要もなかったと思われます)、「100年前の規範」もある意味ではかなり曖昧なものであったとも考えられます。


「宣言文」の中でも述べておりますが、そもそも、根本的な意味で『「芸術」とは何なのか?』と言う問いが発せられること自体が、あまり無かったのではないかと思います。

ですから、「100年前の規範」を、しっかりとした「根拠のある規範」とは言えないと思っています。


では、なぜそこに「回帰するのか?」ということですね。

やや、投げやりな言い方になってしまいますが、それは『それしか方法がないから』ということに成ります。
でも、それでいいんじゃないだろうかとも思っています。


『それしかない』と思うのは、つまり、現在までの「芸術の歴史」の中で、「芸術」がしっかりとした「定義」を持ったことは、まだ一度も無いと思っているからです。

「疑われることすらなかった時代」から、いきなり「ナンデモアリの時代」に一足飛びに急変してしまったために、「定義」が確立される暇がなかったということでしょう。

 ※「宣言文」の中では、この「疑われることすらなかった時代」と言う意味で、「確固たる規範があった時代」と言う言葉を使っています。
 これは誤解を生みやすい言葉だったかもしれません。


『そんな時代に「回帰」することに意味があるのか?』

『ある!』と私は思っています。


なぜなら、もともと「定義」と言うものは、必要に迫られて作られていくものだからです。
ですから、必要がなかった時代に、それが曖昧であったのは当然のことだと思うのです。
問題なのは、必要が出てきたときにも、それが作られなかったということの方なのです。


≪芸術の20世紀≫において、どう考えても、しっかりした「定義」や「規範」の必要性が生じていたにもかかわらず、個々の人間が「それぞれの芸術」を自己の中に勝手に設定するばかりで、それらをまとめ上げて、「時代の規範」となるような「定義」を導き出すことが出来なかったこと、つまりは、「共感」や「共有」するということに欠けていたことによって、「芸術」と言う分野をどう捉えたらいいのか?ということがだれにも言えなくなってしまったということです。

 ※『いいじゃないか、何が問題なんだ?』と言う人が居るかもしれませんけど、
  『それでは、あなたが、いま言っている「そのままででいい」とは、何につい
  て行っているのですか?』とお聞きしたいのです。
  
  個々の人間が「芸術」を、いくら自由に捉えても構わないと思います。
  しかし、それは『「芸術」とは何なのか?』ということが、何も設定されていない
  ということとは全く違うことなのだと思います。
  もしも、そういう「自由」を望む人が居るのであれば、その人は、何についても
  他人とは話すことが出来なくなるということです。
  「言葉」と言うものは、その「言葉」が指し示す「意味」を持って成り立っている
  わけですから、その「意味」を「規定」することを拒否するということは、「言葉」
  を否定することであり、それを放棄することであります。

  つまり、「言葉の意味」を、他の人と共有することを拒むということです。
  そのうえで、身勝手に「自分の言葉」で話すというのであれば、その人は、誰とも
  一切話をすることが出来ないということになります。

  もし、誰とも口を利かないというのなら、それはそれで仕方ないことでしょう。


さて、話を戻すと、≪芸術の20世紀≫において、その「必要な規範」が失われたために「定義」を設定する必要が生じていたにもかかわらず、それがなされなかった。
しかも、その状態で「約100年間」が過ぎてしまった。

そして、その間に「混迷の渦」が近寄るものを飲み込んでしまうような強大な力を持つようになってしまった。


そこで、一旦「定義など必要なかった時代」まで「回帰』して、普通に物事が「定義」される時と同じように、『さて、必要になったから「芸術に対する定義」について、根本からじっくり考えていきましょう』と言う過程を踏んでいこうということなのです。


この手法をとることを『かえってめんどくさい』と感じるかもしれませんが、「コンガラカッタ糸」を解くときを思い出してみてください。

『はさみを取りに行くのが、めんどくさい』
『切ってしまった糸をつなぐのが、かえってめんどくさい』
『もうちょっとやったら解けるんじゃないか?』

でも、実際に一番早いのは「糸を切ってからつなぐこと」です。


≪芸術の20世紀≫に現れては消えていったあらゆる「~イズム」や、それらを生み出した「天才たち」は、すでにその地位や評価を確立しています。

その強大な壁を一つ一つ乗り越えて、すべて乗り越えるには、何世紀かかるでしょう?


彼らはどこかが間違っていたのです。
いや、その時「間違えること」が必要だったのかも知れません。
彼らは、偉大であったからこそ、その「必要な間違い」を犯したのかも知れません。

今は、それだけで十分なんじゃないでしょうか?

後に成って、もう少し客観的な視点が持てるようになったなら、それについて、考え直せばいいんじゃないでしょうか。


さて、それでは何故「100年間」なのか?ということですが、「宣言文」の中では、長々と述べておりますが、これは、厳密な理由があってのことではありません。

先ほども述べた通り、「100年前の規範」とて、さほど当てにはなりません。
ですから、極端に言えばいつでもいいのです。

「確固たる規範」(この言葉が誤解を招き易かったかもしれませんね)があった時代、つまり、「疑われることすらなかった時代」でありさえすればいいだろうということですね。


ただ単に、イメージし易いことが重要だと思いましたので、区切りのいい「100年間」としました。

少なくとも、「芸術の歴史」の中に生み出されたと思われる「混迷」は、この「100年間」でだいたいカバーされるかと思います。


以上のようなことを持ちまして、「100年回帰」の根拠としております。





関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR