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「学齢」を見直すこと



最近よく、「学齢」について、『どういう理由で、今の年齢で学校教育が設定されたんだろう?』と思うことがあるわけです。


義務教育の「6プラス3」に加えて、かなり多くの人が、その前の幼児教育から始まって、高校・大学と言う教育課程を受けるようになっていますから、それらを全部足すと18年~20年以上(浪人等する人もいますから)に成っているわけですけど、これは人生の中で、ちょっと長すぎやしないかと思うわけですね。

しかも、それから、さらに大学院や専門学校に行く人なんかも居たりして、どんどん就学年数が長くなっていく傾向もありますから、
人生の⅓~¼くらいの期間を、勉強に費やしているということですね。

その割に、あまり役に立つことは学ばれていないような気がするのは、私だけなんでしょうか?


『人生は、生涯勉強だ!』と言うのもわからなくもないんですけど、そういう話と、「なんとなく学校に行く期間」の話は、また別なんじゃないかとも思います。


それから、最近、いわゆる「不登校」の子が増えているということをよく聞きますけど、それには、「長すぎる学齢」と言うのも関係があるんじゃないかと思ったりもするわけです。

だいたいにおいて、不必要なものを存続させていると、その期間が長ければ長いほど、理不尽なことが起きてくるものです。

本当に必要な勉強だけを教えるための、最低限の年数の学校であったなら、「イジメ」が発生するようなことも少なくなって、「不登校」の子も少しは減るんじゃないかなと思えなくもないわけです。


それは、やや「出来過ぎな話」かも知れませんが、現在の「6・3・3制」のような、すべての人に対して均等な「学校制度」と言うものの歴史自体が意外と浅いわけで、もともと、昔の時代の「学校」や「学問」は庶民の為のものとは言えないものであったのでしょうね。

「読み書き」が底辺まで普及したのだって、せいぜい100年ぐらい前からなんじゃないでしょうか?
(全世界的には、もっと最近のことでしょう)


それ以前までは、比較的「学校」の歴史が長い(たぶん?)ヨーロッパでも、「学校」は、ごく一部の上級社会出身者のためのものであって、さらに、その中でも学究精神に長けたものだけが、「大学」などで学んでいたわけで、一般庶民が「学校教育」を受けるということ自体が稀であったんだろうと思います。

そうした、「限られた人のための教育」から、「全ての人のための教育」に、いつの間にかスライドしてしまったわけですが、その過程で、「教育機構」が「一般人向け」にシフト・チェンジされて来なかったんじゃないかと思うわけです。


”ナントナク”小学校は6年、

”ナントナク”中学は3年、

”ナントナク”義務教育はそこまで、

”ナントナク”高校ぐらいは出とこうよ、

”ナントナク”大学まで行きたいな。

っていう感じじゃないでしょうか?


で、そのように「教育機関」や「学校施設」、「教育者」をすべて揃えてしまったので、引っ込みがつかなくなっているような気もします。


でも、先ほどの「不登校」の話に限らず、このことは、現代社会にとって、とてつもなく大きな負担になっているように思います。


最もネガティブな言い方をするならば、現在「学校」は、ほとんどの人にとって、「本人には興味もやる気もなくて、尚且つ、大して役にも立たないことを20年かけて教える機関」に成ってしまっているということです。

そして、この「学齢20年分」の負担が社会全体を圧迫しているという面もあると思うのです。


いや、もちろん「勉強」に「興味」や「やる気」がある人もいるとは思いますけど、その「やる気」って、「就職に有利に成るから」とか、
「キャンパス・ライフを謳歌したいから」みたいな「勉強」とは関係ないことによる場合も多いんじゃないでしょうか?


純粋に「勉強したいから学校に行っています」っていう人がどれくらいいるのか?って言うことですよね。
そんなに多くは無いような気がするんですね。

要するに、「学校」が「教育機関」として成り立っていないようなところがあると思うわけです。


老人福祉費や、医療費などについてはよく論じられますけど、学校にかかっている公費について、「学齢」を見直すという形で論じられているのを聞いたことは無いような気がします。


こういうことを言うと、「学校」で得られる「友人」や「体験」などを理由に、『だから学校は大切』ということを言う人が居ますが、それらの「友人」や「体験」は「学校」が無かった時代にも、十分に貴重なものとして存在していたわけでしょうし、それらは、「学校」以外の体験からも生み出すことは出来るはずです。

まして、その「友人」や「体験」の中に、「イジメ」などの「子供にとって最悪の体験」が含まれてしまっている現状を考えれば(これはイジメている側にも同じことが言えるでしょう)、それらを、そこまで「大切なもの」と考える必要もないのかなと思います。


むしろ、今のような「長すぎる学齢」を見直すことで、社会全体が囚われている「縛り」から解放されるような所もあるんじゃないかと思うわけです。


「学齢」を大幅に短くすることで、「無意味な競争」から子供を解放して、「子供のストレス」を取り除いてやれば、そこから育った子供たちは、「脱・競争社会」を果たせるかもしれません。

そうすれば、社会全体としても「脱・ストレス社会」を実現できるかもしれません。

むしろ、そういう「解放された社会」で得られる「友人」や「体験」こそが、その人にとっての「大切なもの」に成って行くんじゃないかとも思います。


そもそも、「学校」での「体験」が貴重であったのは、「学校」こそが、そういう「解放された場」であったからで、いまの「学校」に、その「解放された場」は無いような気がしてしまいます。


そうそう上手くはいかないでしょが、少なくとも、現在の「学齢」には、それほどまでの必然性がないということぐらいは言えるのかなと。


そんな風に思っているわけです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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