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2.「喪失の実践」の具体例について ①教育の場において:の説明



このカテゴリでは【芸術の20世紀喪失宣言】についての説明をしていきます。
(このカテゴリのはじめの記事を先に読んでいただくとわかり易いと思います。)


ここからは、≪芸術の20世紀喪失宣言≫によって、具体的にはどのようなことをするのか?
ということが書いてあります。


ここで、一つお断りしておきますが、この項目に書いてあることは、「具体的な行動」についてですが、私が本当のところで言いたいことは、それぞれの人の「頭の中で行うこと」、つまり「意識の転換」が中心であって、外に表す「行動」については、それほど重視してはいません。


ですから、もちろん、『こうしろ、ああしろ』と指図するものではありませんし、そんなことに意味があるとも、まったく思っていません。


むしろ、私としては「実際の行動は、しなくてもいいんじゃないか?」と思っているくらいです。
「人の意識」が「転換」すれば、実際は、それを行動に移す必要すらないわけで、その「意識の転換」の方がはるかに大きいことだと思っているわけです。

この「意識の転換」を、より厳密に言えば「自分の本当の意識を受け入れること」です。


ですから、ここに書いてあることは、「宣言者」としての「私」の「こんな風に成れば気持ちいいですね」と言う「願望」と、結果として表れてくるものがあるとすれば、『こんなことなんじゃないでしょうか?』と言う「無期限の予測」と言ったようなものと言えばいいのかも知れません。

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それでは本題に移ります。


①は教育の場での話です。

想像するに、教育の場において≪芸術の20世紀≫は、かなり扱いにくいものになっているんじゃないか?と思うわけです。


もともと、「20世紀の芸術」は、学校教育がある程度尊守しなければならない「教育上の姿勢」を、根底から覆してしまうような要素を多く含んでいます。


「破壊」や「退行」などの、一般的には「負の要素」として捉えられていることに、取り組んでいることも多いので、それが良いか悪いかは別のこととして、「教育の場」においては、かなり、説明し辛いものに成っているのではないかと思います。


つまり、それを「肯定」してしまうと、他の授業で教えていることが成り立たなくなったり、道徳教育にさしさわりが出てきたりと言ったことが起きて来るんじゃないかと思うわけです。

それで、現在はそこのところを、「なんとなくスルー」しているんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょう?


そういう曖昧な形をとるよりは、その時代に≪芸術の20世紀≫と言う名前を付けて、他の時代とは区別して扱えるようにした方が、子供たちはもちろん、現場の教育者の方も楽になるんじゃないかと思うわけです。

まして、日本では、「日本における西洋美術」の歴史自体が、実質的には「20世紀」に成ってからはじまったものですから、「20世紀の芸術」=「日本における西洋芸術の歴史」と言ってもいいでしょう。

要するに、とても「存在が大きい」わけですね。


それが、説明できないとなると、恐らく、ほとんど何も教えられなくなってしまうんじゃないかと思うわけです。


そこで、必ず出て来るのが、『芸術は教えられるものではない』と言う考え方ですね。

そんなことは、みんな知っています。
それから、それは「芸術」に限ったことでもなくて、どんなことだって「本当のところ」は教える事なんて出来やしません。
それでも、その中で、「教えられること」を教えるのが学校であり教育なんだと思うのです。

学校での「美術教育」は、いまよりも、もう少し具体的に「何か」を教えるべきなんじゃないかと思うわけです。


現状としては、『なんとなく絵を描かせられて終わり』なんじゃないかと思います。

その結果、「上手い」人は「才能がある」と言われて、「下手」な人は、『君は芸術には向いてないね』という感じでしょうか?


そこに、「上手い・下手」なんて、ぜんぜん関係ない「表現する」という「芸術の機能」があって、そのためには「芸術」を使って「表現する」しかないんだということが、まったく「教えられていない」わけです。


なぜ、それが「教えられない」のか?
それを、説明するときに「20世紀の芸術」を引き合いに出さなければならなくなるからではないかと思います。


そうすると、話は「百倍」難しくなりますから、避けざるを得ないわけでしょうね。

そんな状況を逃れるために≪芸術の20世紀喪失≫を使ってみることは、たぶん、出来るんじゃないかなと思っているわけです。


美術教育の現状は、物理の授業で「アインシュタイン」の理論を使わないと他のことが説明できなかったら、”キビシイだろうな”と言うのと同じくらい”キビシイことなんじゃないか”と思います。


それを、なんとなく”グチャグチャッ”とゴマカシタ感じで説明するのはやめて、ここは特殊だから取り敢えず抜かして考えましょうと言った方が、すこしはスッキリして”マシ”なんじゃないかということですね。


子供にとって、何が辛いって、理解できないものを理解しないといけない風な雰囲気だけがあって、それを、誰も説明はしてくれないということだと思います。


説明できないならば、せめて、『それは理解しなくてもいいよ』と言ってやるべきなんじゃないでしょうか?


ものごとが説明できない時に、『世の中には、説明できることと、できないことがあるんだよ』とか、『ワカラナイ奴にいくら説明したってわかりゃしないんだよ』と言うのは、大抵、それを言っている本人が、そのことを本当のところでは理解できていないからなわけです。


だから、「抽象芸術」などの「20世紀の芸術」が一通り説明できるものになってから、改めて「授業」で取り上げるようにしたらいいんじゃないかと思っています。
(個々の教師が理解していることではなく、一般的な理解が構成されていることが必要だと思います)


それまでの間、≪芸術の20世紀≫を≪喪失の世紀≫と呼んで、、「子供たちを(先生たちも)、その難解な時代から解放しよう!」と言うのが、私のお勧めです。


このようなことを、ここに書いたわけです。






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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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