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4.100年回帰の根拠

 
 100年回帰の根拠といえば「現在、芸術の世界には依って立つ足場がない」ということである。


現在、我々は、皆等しく「芸術の混迷の渦」に飲まれ溺れかけている。

20世紀において加速度的に多様化する時代の要求に振り回され続けた結果、

私たちはすでに確固とした規範を失ってしまった。

規範を失ったなか(足場のない状態)で生き残るためには、

とりあえず「目の前にある藁を掴んで息を継ぐ」しかない。

それが、今の私たちの状態ではないだろうか。


現代の芸術においては「目の前の藁を掴んでやっと息を継いでいる」

としか思えないものが主流を占めている。

それより少しましなものでも、やや安全な場所を確保して息をしているに過ぎず、

現状において普遍性を持った創作が可能だとは思えない。


これは個々の力量や努力の問題ではなく、時代が普遍性を求めていないのである。

現代という「時代の力」(=混迷の渦の求心力)は約1世紀の間強化され続け、

その求心力は個人の力を遥かに凌駕し、

唯一の対抗手段である団結をも、それが結束する前に押し流してしまうほどになってしまっている。

もはや時代の求めていないものを創るには

他の時代へタイムスリップすることを置いて他に方法はない。
(少なくとも、私には他の方法が思いつかない)


歴然とした規範が在り「芸術とは?」の問いに誰もが近しい内容の答えを返すことができた時代に回帰し、

(歴然とした規範とは、芸術について全ての人が完全に把握できているとか、意見が皆一致していると言うこと
ではなく、概ねの人が、概ね把握しているような、つまり時代的な芸術概念が確立されていることを指す)

確かな足場を取り戻した上で、その時代の観点によって改めて芸術というジャンルの概念を問い直し、

確実で正当な把握がなされたことを確認してから、前に進むべきである。


「回帰」した後においては、前述の「歴然とした規範」とは違い

「急進」を乗り切れるだけの用意周到な把握が必要になるだろう。

「急進」は、また起こるだろうし挑戦的であればあるほど急進的にもなるわけだから、

それを恐れていては本末転倒になるだろう。


もともと「急進」が問題なのではなく、しっかりした検証が全くなされなかったこと、

それどころかそういった気構え自体がなかったことが問題だったのだから

慎重な準備さえしてあればよかったのだと思う。


そこで、荒波に対する守りとして船が錨をおろすように、

仮に「急進」に流されそうになっても「堅固な基準」という

錨をたどれば、また元の場所に帰れるようにしておく必要がある。


また、思いもよらない視点を持った「急進」が現れてくることを想定して、

常に違和感や疑問を感じた場合は
(核心を突いた芸術は違和感を伴う場合があるが、
この場合はそれとは違って何度振り返っても払拭できないような違和感)

とにかく「堅固な基準」に帰って考え直すという姿勢を持っていた方がよいのではないだろうか。


さて、本来芸術に関して歴然とした規範があった時代とは、印象派以前と言うことかもしれない。
(それ以前は既成の規範が破壊されるまでのことまでは無かっただろう)

しかし、19世紀の産業革命・地動説(神的世界の瓦解)・科学の躍進・写真技術の発明・光学的研究などを、

もう一度繰り返すことにはさほど意味がないだろう。

それらは主に科学や産業技術の分野での出来事であるし、

印象派もまたこれらの影響から派生したということは

すでに明らかにされているといって差し支えなかろう。

印象派が遺した芸術に関してもまた、ここでの必要に充分な研究がすでになされており、

それらは一般にも浸透しているといってよいだろう。


だから印象派を、もう一度やり直すというのにも全く意味を感じない。


そして何よりも、そこにおいては「20世紀の誤謬」に当たるものが含まれている形跡が見当たらないのだ。

つまり、印象派は「混迷」を生み出してはいないし、それまでの既成概念に一石を投じただけで、

目まぐるしい「急進」の状態はまだなかったと考えられる。


また、そもそも「20世紀の誤謬」が生まれてしまった原因は、芸術の概念規定が曖昧だったこと自体でもなく、

その状態のまま「20世紀の急進」へ突入してしまった所にある。

つまり、「急進」と「準備ができていない曖昧な状態」が組み合わさったことで、

「混迷」が渦を巻きだしたのだろう。


もともと古典の時代から芸術の概念規定は曖昧であり続けていたわけで、たまたまそこに混乱の種が

持ち込まれることが少なかったがために、規範が崩れてしまう前に、

曖昧なままなんとなく修正されていたのだろう。


この曖昧さが問い直されたことはあったのだろうが、

常にキリスト教的な思想(封建思想と言ってもいいかもしれない)

が許す範囲に限っての修正であったので、一元論的な観点しか持たなかった。

そのままの概念規定では、キリスト教的な規範が弱くなり極端な多元論に走った(なんでもありの)

「20世紀の急進」を誤りを犯さずに乗り切ることができるわけもなく、

当然の結果として徐々に誤りが誤りを生むという渦を巻き始め「混迷の渦」が形成され、

それを修正しようとした者たちは「20世紀の急進」のスピードについて行けず

修正者自身も混迷の種にされてしまう形で折り重なるようにして

「誤りの塊」と化して「20世紀の誤謬」が生み出されてしまったのだ。


やや話が逸れるが「それならばなぜ20世紀の巨匠たちは巨匠たり得たのか?」

という疑問が出てくるかもしれない。

それを可能にしたのは同時代の人々が強く求めていた「天才神話」(後述)であったと思われる。

彼ら巨匠たちは皆、なんらかの形で大衆に「天才神話」を提供し、その見返りとして巨匠の地位を

与えられたのではないだろうか。


『「天才」であったから「天才神話」が築かれた』のか

『「天才神話」を提供したから「天才」と呼ばれた』のか、

私は後者だと思う。

彼らが秀でた能力を持っていたことを否定するつもりはない。

ただ、20世紀においては「天才神話」を渇望する民衆心理の影響力の方が作家個人の力よりも

はるかに大きかったということが言いたいのだ。


また、彼らは「20世紀の誤謬」がまだ完全に凝り固まってしまう以前の時期までに、

巨匠としての立場を確立していたということも一つの要因だろう。

そしてその後、彼らは確立された巨匠の立場に居ながら、

常人を超えるエネルギーでその立場を守り抜いたのだろう。
(マスコミという巨大なエネルギーが働いたことも含めて)


※20世紀の巨匠たちを揶揄するつもりではなく「実は彼らも時代に飲み込まれていた」のではないかと言いたい(私が論じているのは「20世紀」という時代であり、それは、その時代にあった全てのものを含めた意味での「20世紀」であるから、彼らに関する論説はすなわち「20世紀」に関する論説である。このことは、彼らが時代の代表者であったことを意味している)


以上の考えから、回帰すべき時代は「20世紀の急進」へ向けての準備期間と推察され、

「混迷の渦」がまだはっきりとは形成されていなかったであろう、20世紀初頭ではないだろうか。


1900年に回帰することも考えたが、この宣言を発する2014年からちょうど100年間遡るという意味で

1914年に回帰することとした。

(観念の中でのタイムスリップであるから、年次の正確さよりもイメージし易くすることを重視した)










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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

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