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「一億総精神疾患時代」(つづき)



前の記事からの「つづき」です。


いま、「一億総精神疾患時代」が来ているんじゃないか?
そして、それを抜け出すには「芸術」と「哲学」しかないんじゃないのか?

それなのに、その「芸術」や「哲学」も「病」に感染してしまっている状態なんじゃないか?ということです。


前の記事に書いたように、「一億総ハクチ化」した時から、「考えないこと」が肯定されてしまっていますから(実際は、もっと前からなんでしょうが、それが蔓延したということでしょうか)、「芸術」や「哲学」のような「考える分野」は、その時から病んでいるわけです。


本当のことを言えば、「芸術」や「哲学」であることが必要なのではなくて、「考えること」が必要なんだと思います。
「考えて行動する」という習慣が復活されれば、この状況から抜けられるんだと思います。

だから「宗教」でも、「考えること」が中心にあればいいんでしょうけど(「宗教哲学」みたいな視点ですね)、「宗教」には「信じる」という方向性がありますから、どうしても、そこだけは「考えること」が”スキップ”されてしまうわけですね。


「ダブル・スタンダード」や「ダブル・バインド」の矛盾は、「考えること」で、わりと簡単に見破れるはずですし(あきらかに矛盾していることが多いので)、それに巻き込まれることも少なくなるハズなんですが、今のように、みんなが「精神疾患」の状態では、「精神疾患」側が主流ですから、それもあまり意味がありません。

数の力で圧倒されてしまうわけですね。


要するに、「考える」側が、主流にならないことには、どうにも、そこから抜け出せないような状態になっているわけです。

もちろん、「精神疾患」=「考えない」ではありませんが、「精神疾患」の渦中にいる人は、そこから抜け出すために考えることで力を使い果たしてしまいますから、他のことを考える力は、もう残っていないわけです。
そのため、「考えること」をネジ曲げられてしまうので、結果的に、本来の自分の意思による答えとは、違う答えを導き出してしまうんですね。


そこで「芸術」と「哲学」なわけです。


「芸術」にも「哲学」にも、突き詰めていけば、「考えること」を”スキップ”するという局面が現れてくることがあるんだと思いますから、その点で、「宗教」との違いは、ほとんどないんでしょうけど、それが、”行きっぱなし”には、成らないというところが違うんじゃないかなと思うわけです。


「宗教」においては、「信じるか?信じないか?」という局面が現れてきたところからは、「考えること」は無意味化してしまいます。
「信じる」のに「理屈」は要らないわけですから、「考えること」は必要なくなってしまうわけですね。

要するに、「絶対的な存在」を「信じること」においては、「思考」は無力化してしまうわけですね。


そうした「高次元の無思考」を「悟り」と言っていたりするんだと思います。


でも、現実には、普通の人間は「考えること」をやめると「低次元の無思考」に陥ってしまうわけで、高次元か、低次元かというよりも、「考えること」で、ギリギリ「人間次元」を保っているんじゃないでしょうか?


「芸術」と「哲学」は、もともと「人間」をテーマにしているものだと思いますから、その「人間次元」の「考えること」に帰ってくるしかないんだと思うのです。

そこで”行きっぱなし”にならないで、戻ってこられるということですね。


現在の「芸術」が病んでいるのは、そういう「人間次元」を無視しているからなんじゃないかと思います。
しかも、そこに戻ろうとする力も、常に働いているにもかかわらず、あえて無視し続けているわけです。


「芸術」や「哲学」が持っている「極める」という性質がマイナスに作用しているんだと思います。
「極める」べきは「人間性」であったわけですが、その「人間性」が、表面上とても”チュートハンパ”なものに見えてしまうために、切り捨てられてしまうんだと思います。

でも、一見”チュートハンパ”な「人間性」でも、よく見れば、それが、”煮詰められた”「人間性」であるのか、”薄められた”「人間性」であるのかは、わかるハズなので、もう少しその辺を大切にして行ったほうがいいんだと思うのです。


まぁ、そういうようなことからも、「芸術」と「哲学」は、「健全さ」を取り戻す必要があるんだろうと。


そういう風に思っているわけです。





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