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受け入れ過ぎ?



何かについて抵抗したり抗議したりしている人に対して、『そんな風にジタバタしても、なんにも成らないんだから、現状を受け入れてしまった方が楽ですよ』と言うのを、よく耳にするわけですが、これは、今の時代には当てはまらないような気がするわけです。

まぁ、要するに、一言で言ってしまえば、時代遅れ(または時代錯誤)な感じがするわけですね。

とにかく、現代人と言うのは、何かにつけて「受け入れ過ぎ」だと思うのです。

と言っても、昔の人がどうだったのかは知りませんけど、少なくとも、今の時代は「国」とか「社会」とか「世間」とかと言った大きな単位から、「職場」や、時には「友人」や「家族」と言った小さな単位までの、ありとあらゆる形の「集合体」の「要求」が、すべて「個人」に対して集中してしまいますから、それを全部受け入れていたら、まったくもって”身がもたない”わけです。


これは「情報化社会」の特徴でもあり、また欠点でもあると思うのです。

「集合体」から発信される「情報」が異常なほど多くて、早く伝わるので、「個人」が、その「要求」に振り回されるわけですね。


それなのに「集合体」の側は、往々にして、「個人」からの「情報」を汲み上げるようなシステムを持ちませんから、「個人」が、一方的に「受け入れ過ぎ」になってしまうわけです。


そして、その結果「受け入れ過ぎ」に疲れ切った「個人」が、「集合体」の機能を低下させているというのが、現代の状況なんじゃないでしょうか?


例えば、「国」や「社会」は「労働者の権利」として、「8時間労働」や「有給休暇」を保証するという「情報」を流していますが、「企業」や「職場」は「人件費削減」と言う「情報」を流す場合があります。

そして、それらの「情報」は、どちらもほとんど流されたまま「ホッタラカシ」にされてしまうわけです。
すると、その時々で、一番力の強い「情報」が「個人」を振り回してしまうわけですね。


景気が上昇中の時には、、『どんどん働け!』と言われ、それが、安定してくると、『そんなに働くのは馬鹿だ』と言われ、景気が悪く成ってくると、『サービス残業も当たり前』になってしまいます。

それらに対して「個人」が反映されることは、ほとんどありません。


『もっと、働きたい』と言うのも、『残業したくない』と言うのも、どちらも、「個人」の正当な「要求」なハズなのに、それが、その時一番強い「要求」と一致していないと、通らなくなってしまうわけですね。
(「個人の要求」は、たいてい「集合体の要求」よりも弱いですからね)

これらは、どちらも「人のやる気」を削いでしまいますから、結果的には、何も生み出さないわけですね。


こういうことは、必ずしも現代に限ったことでもないとは思いますけれど、昔の方が「情報」が少なかったのは間違いがないことでしょうし、「情報」が伝わるスピードも、どんどん加速され続けているわけです。


そんな中で、一昔前と同じように「泰然自若」として「受け入れ」続けても、何も生み出されませんし、誰も”トク”しません。

昔は「情報」の量が適度だったので、「人情」で、その辺が調整できたということでしょう。


本来は、今も昔も人間が「受け入れる」べきものは「自分」であって、「外界からの要求」ではないんじゃないかと思うわけです。


「自分」の内的な世界を見つめて、それを「受け入れる」ことと、「外界からの要求」を「受け入れて”しまう”」こととは、全く違うことなんじゃないかと思うのです。
それは、むしろ反対のことと言うべきものなんだと思うのですが、どうでしょうか?


この二つを混同して『受け入れてしまった方が楽ですよ』と言ってしまうと、言われた側の人は、その二つの「正反対のこと」を同時に突き付けられますから、混乱して、どうしたらいいのか解らなくなてしまうわけです。


「自分を受け入れること」ができれば、確かに「楽」になれるように思います。
しかし、これは案外”ムズカシイ”ですね。

「外界からの要求を受け入れること」は、「その場に流されること」と、ほとんど同じ事ですから、ある意味で”カンタン”です。
でも、ちっとも「楽」になんかなりませんね。

ほとんどの場合、むしろ、受け入れれば受け入れるほど「辛く」なって行きます。


この相反する二つのことが区別されずに、一つの同じこととして、『受け入れた方が楽ですよ』と言われてしまいますから、困ってしまうわけです。


『受け入れた方が楽ですよ』と言っている側の人は、『自分を受け入れること』を”漠然と”想定して言っている場合が多いですね。
ただ、”漠然と”ですから、”ムズカシイ”の部分が抜けているんですね。
むしろ、それは”とてもカンタン”なことだと説明されてしまうケースが多いですね。
(確かに、やってしまえば”カンタン”なのかも知れませんが)

でも、それを、言われた側の人は、「外界からの要求を受け入れること」をイメージしてしまいます。
ほとんどの場合、そういうことを話しているわけですからね。
(「自分を受け入れること」を本気で考えている人は、それについて他人に相談したりはしないでしょうね)

言っている側の人と、言われている側の人の「話の層」が食い違ってしまっているんですね。
片や「楽にはなるけどムズカシイこと」を話していて、もう一方は「カンタンだけど楽にならないこと」を聞いているわけです。

そこで、「カンタン」と「楽」がすり替えられてしまうわけですね。
それで、ただ単に「カンタン」なだけの「外界からの要求を受け入れる」ことが、いかにも「楽に成ること」のようになってしまうわけです。


これをやると、その場に流されている分だけ「楽」に成ったように錯覚するので、初めのうちだけは、いいかもしれませんが、すぐに、「辛く」なってしまいますよね。


基本的に、人間が完全に「自分を受け入れる」ことは出来ないと思います。

でも、部分的にであっても、人間が「自分を受け入れた」場合、少なくとも、その分だけは、「外界からの要求」に抵抗できるように成るんじゃないかと思っています。


「自分を受け入れた」人は、「外界からの要求」に対して抵抗しない理由が少なく成るということかもしれません。

納得できないようなことに対して、人が抵抗しないのは、その抵抗が通らなかったときに「自分の弱さ」を見せつけられることに耐えられないからなんじゃないでしょうか?

そういう「自分の弱さ」を受け入れた人は、もし、たまたま「外界からの要求」と「自分の考えていること」が一致している場合でも、「外界からの要求」を、半ば強制的に「受け入れ”させられる”」という形には、抵抗するように成るハズなんじゃないでしょうか?


これは、「ワガママを通す」とか「自己愛的」という意味での「エゴイズム」とは違うと思います。


「エゴイズム」は、力の優劣とは無関係に「自分」を「要求する側」に置いて、『自分を通そうとする』性質のもので、「自分を受け入れている」とは言えないでしょう。

  ※「自我」と言う意味では一致している部分もあると思います。


「自分を受け入れた」上での「抵抗や抗議」は、おそらくその「抵抗や抗議」が通らないだろうという前提での「抵抗や抗議」です。

自分より力のある者に抵抗して、初めてそれが抵抗に成るわけですから(力の弱いものに対する抵抗は、抵抗と言うよりは「要求」に近いでしょう)、通らない確率が高いわけですね。


その「通らない」と言う「自分の非力さ」を「受け入れる」から、そこで、臆せずに抵抗できるように成るわけです。


「受け入れた方が楽ですよ」と言うと、一見、人生を「達観」しているように見えます。
しかし、実際には、「力関係」で上位の者に”コビヘツラッテ”いることに成ってしまっていますね。
さらには、それを、「達観」しているように見せてしまっているわけですから、「非力な自分」も「実際には達観できない自分」も誤魔化されてしまっています。

これは「自分を受け入れている」とは言えませんね。


むしろ、受け入れるべきなのは「そういう自分」なのではないのでしょうか?
「”コビヘツラッテ”いる自分」や「自分をよく見せようとしてしまっている自分」を認めて、それを「受け入れること」こそ必要なのではないでしょうか?

そこで、そういう「自分の弱さ」を受け入れた人は、自分が「受け入れるべき」と判断したことは、受け入れるでしょうが、「受け入れるべきでない」と判断したことには、抵抗するでしょう。


「受け入れるべきでない」と判断しているのに、抵抗しないのは、その人が「弱い」からではなくて、「その弱さを受け入れていない」からだと思うわけです。


要するに、そういう時に抵抗しないのは、「抵抗できないから」ではなくて、「抵抗しても通らなかったときに”カッコワルイ”から」なんだと思います。


そこで、「人情」すらも機能しなく成ってしまった現代においては、何かについて抵抗したり抗議したりしている人に対しては、『受け入れてしまえば楽ですよ』と言うのではなくて、

『その要求を受け入れる必要など、まったく無い!』

『その抵抗が無駄だとしても、そんなことは、どうでもいいんだ!』

と言うのが「人情」のある言葉なのかなと。


そんな風に思うのです。

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2019年5月に追記

読み返したら、自分でも意味がよくわかりませんでした。
たぶん、読んだ人には、理解不能だと思います。

自分では、読んでいるうちに、書いたときの気持ちを思い出してきて理解できるようになりましたが、人には伝わらないだろうなと思います。
なんとか、意味が伝わるように書き直そうと考えましたが、どうも無理そうなので諦めました。

いっそのこと、削除してしまおうかとも思いましたが、この記事は気に入っているので、一応残しました。


そういうわけで、読んだ方はご愁傷さまです。

さらに、この追記まで読んでしまった方には重ねて、お悔やみを申し上げます。


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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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