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「受け入れがたいものを受け入れること」と「拒否しがたいものを拒否すること」



前の記事に関連したことに成ります。


前の記事では、現代人は、「外界からの要求」を「受け入れ過ぎ」なのではないか?

そして、本当に受け入れた方がいいのは、外界から要求されたり、突きつけられたりするものではなくて、自分自身の中の「弱さや不完全性」を含めた「本当の自分」なのではないか?と言うようなことを書いたわけです。


さて、それに近い話で、「受け入れがたいものを受け入れること」が人間を成長させる、と言う考え方があると思います。
こういう考え方においても、ほとんどの場合、その「受け入れがたいもの」とは「外界からの要求」なんだと思うわけです。


ただ、そこで、敢えて「受け入れがたいもの」と言っていることで、それが「受け入れるのが非常に困難なものの」であるという条件が付いているわけです。

それで、結果的には、その「受け入れがたいもの」を「受け入れる」には、「本当の自分」をも、受け入れなければならないだろうということで、それが、人を成長させるということに成るのだと思うわけです。


まぁ、やっぱり「非常に困難」ですから、それを「受け入れる」過程で、「なかなか受け入れられない自分」や、意識としては「受け入れているつもり」でも、実際の行動が付いてこない「ジレンマ」などを、受け入れる必要が出て来るということなんでしょうね。


確かに、それは「自分を受け入れること」に成るように思います。


さて、そこで、これとは正反対に、「拒否しがたいものを拒否すること」についてはどうなんでしょうか?


人生の中には、「受け入れがたいもの」もありますけど、「拒否しがたいもの」と言うのもあるわけですね。
ただ、ここでは「抵抗できない誘惑」のようなものとは違って、もっと「拒否できない」の圧力が強いものということですね。


例えば、第二次大戦中の日本で、『私は人を殺すのは嫌なので、戦争なんかには行きません』と言って、徴兵を拒否することは、非常に「拒否しがたいものを拒否すること」ですね。


確かに、本当の意味で、「受け入れがたいものを受け入れること」は、「自分を受け入れること」無くしては、達成できないことのように思われます。

でも、実は「拒否しがたいものを拒否すること」もやはり、「自分を受け入れること」ができないと、達成できないことなんじゃないかと思うわけです。

と言うよりも、むしろ、こちらの方がより一層「自分を受け入れること」の比率が高くなるんじゃないかとも思います。


前の記事でも書いたことですが、「自分を受け入れた人」は、「外界からの要求」に対して抵抗するようになるものだと思っています。


人間には「自我」がありますから、その「自我」を持っている「自分を認める」ということは、その「自我」を表出するということに成るんだと思いますが、どうでしょうか?

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※ 「自我」を消滅させることをもって「悟り」とする宗教的な考え方がありますが、
  その「悟り」と言うのは、不可能なことであるという前提で語られる「達成不能
  な完全」という話なんじゃないかと思うのです。

  これは個人的な考えですから、そのほかの考え方を否定するつもりはありま
  せんが、「空」とか「無」と言うような「悟り」的なものは、現実に、人間が追い求
  めるために設定されたものではなく、「人間が遠く及ばないもの」として設定され
  ているんだと思うのです。
  それは、「涅槃(ねはん)」のような、「現実とは違う所」にあるもので、現実の世
  界でそれを追い求めることは、ある意味、最もそれから遠いことになってしまう
  んじゃないかと思うわけです。

  敢えて言えば、そこには手がとどかないかないということを知るために、つまり、
  「自分の非力さ」を思い知るために追究するということなのかも知れませんね。

  これは仏教系の宗教以外でも、同じようなことが言えると思っています。

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いずれにしても、「自我」を消滅させることは、そう簡単にできることでもないので、取り敢えず、”ヌキ”に考えてもいいんじゃないかと思いますので、人間には、「自我」があるという前提で言うと、やっぱり、「自分を受け入れた人」は、「自我」を表出するように成って行くものなんじゃないのかなと。


そうなると、やはり、「外界からの要求」に対しては抵抗することが多くなるように思うのです。


それは、「受け入れがたいものを受け入れること」で言うと、「自分を受け入れた人」が「受け入れがたいものを受け入れること」を選択するのは、それが、一番”マシ”な時だと思うのです。


「自我の判断」は「拒否」であっても、抵抗したり拒否したりすることを試したうえで(頭の中で試考するだけの場合も含めて)、それが何も生み出さないと判断した時に、仕方なく、『受け入れがたいものを受け入れる』ということなんだと思います。

つまり、「自我」を抑え込んで、「ただ漫然と受け入れること」ではないということです。


「漫然と受け入れること」は、「受け入れた」のではなく、「耐えた」或は「我慢した」ということだと思います。


また、「拒否しがたいものを拒否すること」においては、「自我の判断」が「拒否」であることは同じですが、「拒否」するのが困難なために、「受け入れて」しまった方が”楽”な場合に、敢えて、「自我の判断」に従って、困難な方を選ぶということに成ります。

結果的に、「外界からの要求」に対して、それを「受け入れるか、拒否するか」ということは絶対的な問題ではなくて、本当の問題は、「自分」をどう扱うかなんだと思いますね。

それが、人間にできることの限度だと言ってもいいのかもしれませんね。


現時点で、人間にできるのは、「自分を知ること」ぐらいなんじゃないですか?
まだまだ、「涅槃」は遠いと思いますね。


「自分の中」をどこまで見つめられるのか?そして、その結果として、どんな「自分」を「本当の自分」とするのか?
さらには、その「本当の自分」を「受け入れられる」のか?
ということなんじゃないのかなと。


それだけで、じゅうぶん大変!


そんな風に思います。

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2019年5月に追記

前の記事に続いて、こちらも意味不明だと思いますが、自分が気に入っているという理由だけで残します。

どうもすいません。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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