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「上・下の差」と「平等」



「平等」と言うと、「上・下の差」が無いことなんでしょうね。

それが「平等」の意味なんだと思うわけですけど、どうも、「平等」と言われるときに、やや、そこから意味がずれている時が多いんじゃないかと思うわけです。


つまり、「上・下の差」が無いことではなくて、「上・下の差」を埋めることを「平等」と言っていることが多いんじゃないかと思うわけですね。


「上・下の差」は必ずあるものとして、「無いハズがないもの」と言う考えに基づいて、それでも、「平等」にしなければいけないから、無理にでも「上・下の差」を埋めて、その「段差」をなくす、ということを「平等」と言っている場合が非常に多いんじゃないかと思うわけです。


確かに、それでも、一応平均化することには違いないでしょうが、それは、「なんとなく平等」ではあっても「人間としての平等」とは言えないような気がするわけです。


実際には、人間社会に「平等」と言う考え方が必要になってきたのは、「上・下の差」があっても、なんとしてでも「均等」にする必要があったからではなくて、「上・下の差」と言うものは、実際には、ほとんどないということがわかってきたから、もしくは、「上・下の差」を判断することがほとんど不可能なほど、人間の価値基準が複雑になったからなんじゃないかと思うわけです。


人間が、もっと動物的であった時には(今も動物ではあるんですが)、おそらく人間の価値の基準は、かなり単純であったわけです。

例えば、「体が大きい」とか、「心身ともに丈夫である」とか、「生殖能力が優れている」などと言った、ある意味で単純な要素が価値基準のほとんどだったわけです。
(それだって、本当は複雑なんでしょうが、人間にとって把握し易いということなのでしょう)


ところが、人間が「知能」に特化した生き物に成った時から、人間の価値基準は、急激に複雑化して、それは、あまりにも、多岐にわたっているために、もはや、「上・下の差」を設定しきれないほどに成ってしまったわけです。

例え、そこに「上・下の差」が存在するのだとしても、複雑すぎて、誰にもそれを正確に判断することが出来ないし、敢えて、無理矢理に、その判断を下さなければならないほどの大きな差も無さそうだから、「すべて平等」ということにしてしまったほうが、わかりやすくていいだろう。

ということで「平等」と言う概念が確立されてきたんだと思います。


それなのに、いまだに、「平等」ということを、「上・下の差」を埋めることだと思ってしまうのは、なぜなんだろうか?と考えるわけです。


おそらく、それは、「社会のヒズミ」が創り出している「力の上・下の差」を、「人間の価値の上・下の差」と取り違えてしまうからなんじゃないかと思うわけです。


例えば、「レイ・チャールズ」や「スティービー・ワンダー」のような盲目のミュージシャンが居ますが、彼らが野生動物であれば、自然界の法則の下に、真っ先に淘汰されてしまったでしょう。

しかし、人間が「知能」や「知性」に特化した生き物であるために、彼らには「ミュージシャン」と言う仕事が与えられ、それによって、彼らは社会の中で成功して、「力の上・下の差」において、「上」に位置することが出来たわけです。

そこで、成功した彼らを低く見る人は多くはありません。
でも、彼らが、もし、紙一重の差で、ヒット曲を生み出せなかったら、どうだったでしょう。

黒人で盲目である彼らの選択肢は多くはなかったのかも知れません。
また、「力の上・下の差」に置いて、「上」に位置することも無かったんじゃないでしょうか?


「人間の価値の上・下の差」に置いては、ほとんど変わらないのに、社会の中での「力の上・下の差」に置いては、大きな差が出てしまうというわけですね。

そして、その二つが、混同されているということです。


このことは、人間が「知性の価値」を認めていることをあらわしてはいますが、反面、それを、正しく理解してはいないことをあらわしてもいます。


つまり、人間が「知性の価値」を認めているからこそ、一流ミュージシャンとしての「レイ・チャールズ」をバカにしたりはしません。

しかし、その「知性の価値」を、正しく理解してはいないから、売れないミュージシャンとしての「レイ・チャールズ」のことは、平気で低く見るというわけです。

むしろ、それは「当然のことだ」と言う考え方の人も多いのでしょう。


これは、何も彼らのような有名人に限ったことではなく、一般人に対しても同じことが言えていて、実際に「上・下の差」があるのは、社会の中での「力関係」に置いてであって、「人間の価値」に置いてではないわけです。

そこのところを取り違えたままで、「平等」などと、言葉だけで言っていても、そこには、ほとんど価値はありませんし、そういう中で、無理して「上・下の差」を埋めようとしても、すぐに本音が出てしまうわけですね。


つまり、そういう人は自分の中に「差別的な面」を持っているということですね。
と言うよりも、すべての人の中に、そういう「差別的な面」があるといってもいいのかも知れません。

その部分が、大きい人と小さい人が居るということなんでしょう。

それなのに、教育で「平等」を徹底的に刷り込まれていますから、そちらにも逆らえなくなっているわけです。


そこで、「上・下の差」はあるけれど、「それを無理にでも埋める」と言う方法論が導き出されてくるのでしょう。


そういう人は、無理して「平等」なんて言わずに、一度、自分の中の「差別的な面」を、受け入れてみたほうがいいように思うのです。


そして、その「差別的な面」が、簡単に受け入れられてしまうのであれば、それは、それで、その人にとっては仕方ないことなんだと思います。

その人は、もしかしたら、「差別主義者」としてやっていくしかないのかも知れませんね。


でも、もしも、それが受け入れられないのであれば(実際は、ほとんどの人が受け入れられないハズですけど)、「上・下の差」なんてものは、もう、とっくに存在しないということを、認めるしかないんだと思うわけですね。


少なくとも、人間同士の間にはですね、もうだいぶ前から、「上・下の差」を設定することには、意味が無く成っていると思うんですよね。

それなのに、なんで、そうまでして「上・下の差」があるということにしたいんですかねぇ。


要するに、『ここから下の相手に対しては、威張ってもいいんだ』とか、『ここより上の相手になら、ペコペコしても恥ずかしくはないのさ』と言う基準が欲しいんじゃないんですか?


『あなたは恥ずかしくないでしょうけど、傍で見ているとけっこう恥ずかしいもんですよ』


傍で見ているのは「人間の私」ですね。

見られているのは「動物の私」です。

もしも、両方とも「私」だったら、という「話」ですね。


そういう風に思います。



 
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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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