「動物の自信」と「人間の自信」
「自信」と言うと、一般的には「自分には〇〇が”できる”と確信していること」ということに成っているわけです。
でも、実は、この「〇〇が”できる”型」の「自信」と言うのは、「動物の自信」なんじゃないかと思うわけです。
たとえば、「サル山」のボス猿」は、常に「自信満々」ですよね。
それは、おそらく『オレ様は〇〇ができる』と思ってるんですね。
人間でも、そういう「お山の大将」系の人は、けっこうたくさん居るんだと思いますけど、どうも、これを「人間の自信」だとは思えないわけなのです。
一方、それとは反対に、いかにも頭の良さそうな人に、「それはわかりませんね」とか「そういうことは全然知らないんですよ」なんてミョウにキッパリと言われてしまうと、『この人は相当自信があるんだな』と感じてしまうことがあったりしますよね。
これは「〇〇ができない型」の「自信」ですね。
ただ、これは正確には、「〇〇ができないと”言う”自信」で、大抵の場合は、「他のナニカができる」という「自信」が裏付けになっているわけです。
だから、結局はこれも、「〇〇ができる型」の変形なんだと思うんですね。
それでも、やっぱり、『〇〇ができない』と言う言葉を使うことで、随分、「知的」な感じがしてくるというのはあるんじゃないでしょうか?
つまり、「〇〇ができる型」の「動物の自信」と比べると、「知性的」或は「精神的」な感じがする分だけ、「人間らしく」見えるのでしょうね。
「動物の自信」は「身体的」や「肉感的」ということに成るんででしょうか。
これは、どちらが上ということでもありませんが、人間はやはり「人間らしく」の方が合ってるんじゃないかと思いますので、
「人間の自信」を持つようにした方がいいんじゃないのかなと。
その場合の「人間の自信」は、やっぱり「〇〇ができない型」の「自信」に成ると思うわけです。
この場合は、先述の「裏付けのある自信」ではなくて、裏付けがなくても、『〇〇ができないことに自信を持つ』ということですね。
言ってみれば、「何もできないということの自信」ですね。
それは、言い換えれば、「自分の存在自体に対して自信を持つ」ということに成ります。
だから、もっと正確に言うなら、「”できる”・”できない”に関係ない自信」ですね。
つまり、「外から与えられた自信」ではなくて、自分の中で、「自家発電」のように創り出された「内なる自信」ですね。
それが、たぶん最も「精神的な自信」なんじゃないかと思うわけですね。
そして、それは、最も強い「自信」でもあるんだと思います。
「外から与えられた自信」は「外の状況」によって、左右されてしまいますが、「内なる自信」はそれほど、変化することがないと思いますし、何より、「人間」に合っていますからね。
だから、今、「自信」がある人もない人も、「動物の自信」に頼らず、前もって、「人間の自信」を自分の中に創っておいた方がいいんじゃないかなと。
そのうち、もしかしたら必要になるかも知れませんよ。
そういう風に思います。
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