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「人が美しく見える時」と「人が醜く見える時」



『人間と言うのは美しいものだなぁ』と、つくづく思うときがありますけど、逆に、『人間とはなんと醜いものか』と思うときもあったりします。


『美しいものだなぁ』の時は、涙が出るほどうれしく成りますが、『なんと醜いものか』の時には、涙を流すほどの気力も削がれて、堪えらえないほど悲しく成ります。


そこで、「人が美しく見える時」と「人が醜く見える時」とは、どんな時なのかと考えてみたわけです。


つらつらと考えてみたところ、私の場合は、「人が美しく見える時」は、人の中に「自己犠牲」を感じたときです。
そして、「人が醜く見える時」は、人の中に「自己保身」が見えたときですね。


ただ、「自己犠牲」と言っても、「キリストが人々の罪を背負って磔刑に成る」みたいな悲壮な感じじゃないです。

道に迷っている人に、「丁寧に道を教えてあげる人」くらいで十分美しいと思ってしまいます。
(こういうのが意外と少ないです)
そして、そういう人を見かけただけでも涙が出るくらいに嬉しく成ります。

何故なのかは、よくわかりません。


また、「自己保身」の方も、それほど厳密ではなくて、普通レベルで「自分優先」なぐらいは、だいたい「OK」です。
でも、「自己保身のために他人を踏みつけにする人」を見ると、本当に悲しくて堪えられなくなります。

これも、何故なのかはわかりません。


私のことはともかくとして、「自己犠牲」が美しく見えて、「自己保身」が醜く見えるのは、たぶん、「人間の本質」と関係があると思うわけです。


つまり、「自己犠牲」は「人間の本質」の中心に近い所のもので、「自己保身」は「人間の本質」から外れたものなんじゃないかと思うわけですね。


これは、このことに限った話でもありませんけど、「本質」を得たものは”美しい”と思いますし、「本質」から外れたものと言うのは”美しくない”と思うのです。


ただ、ここで人間特有の「難解さ」が出てきます。
つまり、「自己保身」の方が、「動物としての人間」の「本質」には近いということがあるわけです。
当然、「自己犠牲」は「動物としての人間」の「本質」からは外れています。

つまり、純粋に「人間としての人間の本質」と、「動物としての人間の本質」が、逆転しているわけですね。


人間は、人間である前に動物であるとも言えますから、この「動物としての人間の本質」を優先したとしても間違いではないのかも知れません。
だから、『そういうのは偽善だ!』という人がいたりするんでしょうね。

でも、それでは「人間」が「人間」に成った意味が無く成ってしまうんじゃないでしょうか?
だとすれば、やはり、純粋に「人間としての人間の本質」に従った方が”人間らしい”んじゃないのかなと。


それから、ここにはもう一つ「言葉の仕掛け」が潜んでいるわけです。

そもそも、「美しい」とか「醜い」と言う言葉自体が、「動物としての人間」ではなく「純粋に人間としての人間」が生み出したものだということです。

だから、当然「美しい」や「醜い」について言う場合、純粋に「人間としての人間の本質」を基準に考える必要があるわけです。
当然、それは「偽善」についていうときにも同じことが言えるわけですね。


取り敢えず、こんなことで、「自己犠牲」と「自己保身」が、私にとっての「美しい人」と「醜い人」の基準になっているようです。


なんとなく、最近「自己保身的な人」が多いような気がします。

『動物に逆戻りしちゃうんですか?』

『たぶん、それは出来ないと思いますよ』

『進化は前にしか進めないので』


そんな風に思っています。


 ※「進化」は「戻る」という選択をしないらしいです。
  「退化」は「無駄に成った機能を失うという形の進化」であって、「戻る」ではない
  らしいです。
  だから、「進化論」においては、「人間」が「その前の段階」に「戻る」ことはない
  ようです。

  もしも、「人間」が「戻る」ことが出来るとすれば、それは、「進化論」とは無関係
  に、「人間」が「歴史から学ぶこと」が出来るようになるしかないんじゃないかと思
  います。
  「人間」は、過去において、まだ、一度も「歴史から学んで戻ること」を選択したこ
  とはないんじゃないでしょうか?

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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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