FC2ブログ

「下から上」は見えるけど「上から下」は見えない



とかく「社会」と言うものは、自分と違う階層のことは見えにくいものなんだと思うわけです。
なかでも、「下から上」は、少しくらいなら見えるけれど、「上から下」は、ほとんど何も見えないというのが現実なんじゃないでしょうか?


つまり、「一般庶民」は「エライ人たち」のことが、時々垣間見えることがあるけれど、「エライ人たち」からは、「一般庶民」のことは、まったくと言っていいくらいに見えていないということですね。

だから、「エライ人たち」は、よく「一般庶民」から見ると”トンデモナイ”と思うようなことを言い出すんでしょうね。


と言っても、これは、昔に比べれば、だいぶ良く成ったんじゃないかとも思います。

「格差」のギャップが小さく成って来たんでしょうね。
希望的観測を少し多めに入れて言うと、もう少しで必要な程度の「社会的フラット」に成るような気がします。

まぁ、あくまでも、『数百年後に、そうなればいいなぁ』と言う話ですけど。


でも、せっかく「社会」が「一応フラット」になっても、まだ、それを受け入れられない人が居るんですね。
しかも、実に、たくさん居るんですねぇ。


もう、とっくに「上も下もない世の中」になっているのに、「上から下」が見えないという”フリ”をするんですね。
これは”卑怯”ですね。

それから、こういうことを批判すると、「ネガティブ」と言う烙印を押される傾向がありますけど、その手の「ポジティブ」も、また、”アサハカ”としか見えませんね。

『「批判すること」を批判すること』ほど意味のないことはありません。

それは、「権力」にヘツラッテいる自分の姿を見ないようにして、「自己正当化」しているにすぎないですね。
つまり、これもやっぱり「見えない”フリ”」ということですね。


それはともかく、「社会」がかなり「フラット」に成っていても、「自分がエライと思っている人」にとっては「フラット」になったら困るので、勝手に自分の頭の中に「社会的な階層」を設定して、その階層の中で「下」のことは「見えないこと」にしてしまうわけです。

そうした「バーチャル・ヒエラルキー」=「妄想上の階層」というのは(これは、私が勝手に言っているだけですから、ほかで使うと恥をかきます)、正攻法ではなかなか崩せません。

一種の「自己洗脳」・「自己催眠」のような状態ですから、それを解かないと崩れないわけですね。

まして、「社会」も、それをあえて突き崩そうと言う努力をしていませんから、「洗脳」や「催眠」が一層強固なものになって行ってしまう傾向があるわけですね。


カルト宗教に「洗脳」された人を見ればわかりますが、そこで「ポジティブ」だの「ネガティブ」だの言っても意味がありません。
とにかく、「手段を選ばない」ぐらいの覚悟で、徹底的に「否定」することで、「洗脳」された頭から「教祖』や「教理」を追い出さないと、その人の人生は、乗っ取られて潰されてしまうわけです。


まぁ、それと同じくらい「バーチャル・ヒエラルキー」は強固だということですね。
だから、絶対と言ってもいいくらいに「自浄作用」には期待できません。

これは周りの人も迷惑でしょうが、「カルト宗教」の場合と同じように、本当に破壊されてしまうのは「当人の人格」です。


やはり、「社会制度」や「教育」で、ある程度の強制力をもって、その辺のところを修正していくしかないように思います。


これを、強制的で「自由じゃないこと」のように考えるのは、チガウと思いますね。

人間と言う生き物は、「教育」や「学び」によって、「成体」になる「生き物」なんだと思うわけです。

だから、その「教育」を放置して、「なるように成る」或は、「自発的に学ぶ」と言う考え方だと、誰も「成人」=「成人間」に「羽化」できなくなってしまうということです。

 ※もしも、「人間」が、完全に「原始」に戻って、もう一度「動物として生きる」
  という選択が許されるのであれば、「教育」を否定できるのかもしれません
  が、そうでなければ、けっきょくは、ナニカが「教育」されてしまうわけです
  から、そのナニカが刷り込まれてしまうわけです。
  だとしたら、現在のように「社会にとって都合がいい情報」だけが刷り込ま
  れるよりは、「人間にとっての都合を優先した情報」を刷り込んでいった方
  が、少しマシなんじゃないかと思います。

こういうのを「自由」とは言わないですね。
まったくチガイますね。


そこから生まれるのは、”動物的”な「無軌道」や「ワガママ」であって、”人間的”な「自由」では有り得ないですね。


現在、「イイ学校を出た人」が「頭がイイ」と思っている人が山ほど居ますね。
「社会的な地位が高い人」を「エライ人」だと考えている人なんかも、大多数と言えるでしょう。

逆に、心底からそう思っていない人なんて、ほんの一握りしかいないんじゃないでしょうか?
(言うだけの人は沢山居るんですけどね)

そういうのが、現在の【「放置」と「自由」を取り違えた教育】がモタラシタモノだと思います。


やはり、「教育」に「人間が指し示した方向性」が与えられなければ、それを「教育」と呼ぶ根拠すらなくなってしまうわけで、その「単なる放置」を「自由な教育」と言っていたら、「人間」は「類人猿」に戻って行ってしまうんじゃないでしょうか?

本当に「サル」に戻れるならいいんでしょうが、「服を着て自分をお.利口だと思いこんでいるサル」というのは、ミジメなだけだと思いますよ。


「類人猿」までは戻らない(戻れない)としても、ウワッツラだけ「ホモ・サピエンス」でナカミが「北京原人」だと、”チョット悲しい”ということでしょうね。
(「北京原人」が、分類上「類人猿」に近いのか、「人類」に近いのかは知りませんが)


最低限「人間がホモ・サピエンスに成れるだけの枠組み」を与えるのが、「教育」の役目だと思いますがどうなんでしょうか?
「ホモ・サピエンス」は「知性あるヒト」みたいな意味だったとおもいます。

「自分がエライんだぞ!と思いこんでいるヒト」は、「知性あるヒト」では無いような気がしますね。


こういったことは、おそらく経済や、産業にもプラスに作用するんだと思います。

産業や、経済が行き止まった感じがある現在に置いて、もう少し、発展しようとするならば、こういうところを攻めるしかないんじゃないのかなと。

「やや後退しながらの発展」ということに成るんでしょうけどね。


まぁ、本当は「経済」なんて、どうでもいいことなんだと思うんですけどね。
結果的に「人間」が気持ちよく暮らせる世の中なら、「経済」もある程度、循環していくということじゃないかなと。


そんな風に思っているわけです。




関連記事

管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


リンクはご自由にどうぞ

QRコード

QR