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芸術作品の「在り方」と「見せ方」



私は「絵」に合わせて「額」も作っていこうと考えているわけですが(まだ、できてませんけど)、「芸術作品」には、「見せ方」ということが必要になってくるんじゃないかと思っているわけです。


「芸術作品」と言うのは、それ自体がすべてであり、単独で完結している必要があると言うべきなのかも知れませんが、それでも、なおさらに、何か加えることは出来ないものだろうか?と言う気持ちがあってもいいんじゃないかと、そんな風に思って、「額」を作ろうと考えているわけです。

 ※ さらに言えば、「額」は「平面作品」を独立させるためのものでもあるとも
  思っているので、「単独」であるためにも必要なモノだと考えています。


たとえば、教会の祭壇画なども、教会にあるのと美術館にあるのとでは、かなり根本的に意味が違ってくると思います。


純粋に「絵画」として見たときと、「宗教的なアイテム」としてみたときとでは、当然、意味が違ってきますし、「見え方」も違ってくるということでしょうね。

これは、日本の襖絵や屏風絵などにも共通のことが言えていて、家具や建築の中の一部としてみる場合と、その平面を「単独の絵画」としてみたときとでは、「見え方」も「意味」も違ってくると言えるでしょう。


つまり、「見せ方」によって、「見え方」や「作品の意味」が違ってくるということに成るわけです。


本来、「芸術作品」と言うのは、独立して成り立っているものなのかも知れませんけど、厳密な意味で「独立」した「作品」と言うものは無いということも事実なわけで、そうした意味では、このように「見せ方」によって「作品」の「意味」や「見え方」が左右されるということも、当然と言えば当然のことなのかも知れませんね。

 ※例えば「絵」が、「一枚の絵=タブロー」として、独立した作品であったとしても、
  それが「物質」である以上、必ず「存在する場」を必要とします。
  それは、その「作品」に接している周囲の環境の存在を意味しますし、それを
  否定することは出来ないということです。
  だから、「芸術作品」は、いかに独立した「作品であっても、周囲の環境に必ず
  何かしらの影響を受けることになるわけです。

  それで、どうせ影響されるならば、その影響をも「作品」に取り込んでしまおう
  という考えですね。


さて、そこで、この「芸術」の「見せ方」についてなんですけど、これを、「演出」と言うのとは区別する必要があるんじゃないかと思っているわけです。


「見せ方」と言うのは「演出」に近い言葉だとは思うのですが、「演出」と言うのは、その「作品」の根本的な「在り方」や「意味」を揺るがしてしまうようなものではなく、あくまで、「モリアゲ効果」としての範囲にとどまるものであって、それ以上に逸脱して、「作品」自体の「在り方」や「意味」に影響を与えてしまってはならないモノなんだと思うわけです。


まぁ、そういう「過剰演出」を「エンターテイメント」の世界では「ヤラセ」と言ったりするということでしょうね。


つまり、その作品の本来の「在り方」を,変えることなく最大限に引き出すことを「演出」と言うのでしょう。


それに対して、ここで言う「見せ方」と言うのは、その「作品」の根源的な「在り方」を変えてしまうような形で、見る者の視点を転換することを言っているわけです。


たとえば、美術展で言うと、「展示方法」や「作品の並べ方」などが「演出」に当たります。


それに対して、ここで言っている「見せ方」の部分に当たるのは、美術展に行った時に、出口の先に「お土産コーナー」みたいなものが設けられていて、その日、展覧会で見た「作品たち」が、いわゆる「グッズ」になって販売されていることが多いですが、その「グッズ」に成った「作品たち」は、もはや、「作品」とは言えなくなっていて、マグカップはマグカップだし文房具は文房具なわけで、そこに取り込まれた「作品」たちは、マグカップの絵柄であり、文房具のデザインであるわけです。

つまり、「作品たち」の「在り方」が変わったわけですね。


こういうのは、「作品」から、むしろ遠ざかってしまっている例ですが(それが悪いということではありません)、それとは反対に、「作品」をより一層、その「作品」の目指すところに近づけるような「見せ方」と言うのもあるんじゃないかと思っているわけです。


「近づける」と言うよりは、「補完し合って完結させる」と言う感じでしょうか。


少し前までは、「芸術」に、このような「見せ方」と言う考え方は必要ではなかったんだと思いますが、現在は、「芸術」が確固たる拠り所を失ってしまっている時代なので、それを何かの形で「補完」する必要が出てきているんじゃないかと思うわけですね。


それが、私の場合は「絵画」における「額」なわけですけど、もちろん、他の「ナニカ」であってもいいでしょうが、拠りどころを失くした「芸術」が「芸術」として「存在」するためには「ナニカ」が必要なんじゃないかなと。


まぁ、そんなことを考えてやっているというわけなのです。


 ※ここでいうところの「芸術の拠りどころ」とは、「その作品の意味」とも言い換える
  ことが出来ると思います。
  「現在の芸術」においては、「意味」が求められると思っています。
  現在は、「独自の意味」を持たないものを「芸術」ということが難しくなっているん
  じゃないでしょうか?
  もしも、「独自の意味」がなくても、「芸術」と言えるのであれば、工業的に生産さ
  れたものでも、自然に産出されたものでも「芸術」であると言わなければならなく
  なりますが、そうなると、いかなるものも「芸術」ではないとは言えなくなってしまい
  ますから、その時点で「芸術」という言葉の意味が崩壊して、「芸術」は存在でき
  なくなってしまいます。

  その「意味性」を強化するために「見せ方」を使うことは出来ると思うわけです。

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