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「物語り」はソコにある



人の「人生」には、それぞれの「物語り」があると思うわけです。
でも、時々、そういう「人生の物語り」が、軽んじられているように感じてしまうことがあるわけですね。


つまり、何か特別なことをやり遂げた人の「人生」にある「物語り」と、ごく平穏な「人生」を送った人の持っている「物語り」の価値が、随分と違うものとして考えられているように感じてしまうわけですね。

でも、実際は、「物語り」と言うのは、「視点」の置き所で、まったく違うものに見えてくるわけで、その人の「人生」がどういう風なものだとしても、「視点」の置き所によっては、「オモシロイ物語り」にもなりますし、また、違う視点から見れば「ツマラナイ物語り」にしか見えなくなってしまうかもしれないのです。


たとえば、最近のドラマや映画の仕立てに「スピンオフ」と言うのがありますけど、全く目立たなかった脇役のキャラクターでも、その人を主役に立てたとたんに、その人はもう「主役」にしか見えなくなってしまうわけで、「スピンオフの物語り」と「元の物語り」のどちらがオモシロイかということは、単なる好みの問題で、その二つの「物語り」の価値にそれ程の差があるということは無く成ってしまうわけです。


これは、「ドラマ」や「映画」の中の登場人物だけでなく、現実の人の「人生」についても全く同じことが言えていて、その人を中心にして、その人の目を通してみれば、その人の「人生」が一番オモシロイに決まっているわけで、それ以上の「物語り」など存在するハズがないわけです。


要するに、どんなに「奇想天外な人生」でも、その「物語り」を聞いた人が、『ふーん・・・で、だから?』と言ってしまえば、それで、その「物語り」はオシマイだし、どんなに、「平凡な人生」でも、その「物語り」を聞いた人が、『へぇー、それで、その時どんな気持ちだったんです?』と聞き返せば、『あぁ、あの時はね、子供が生まれたばかりで、すごく嬉しくってねぇ』などと話が展開して、それこそが「物語りの始まり」と成るわけです。


「エンターテイメント」の中の「物語り」と言うのは、その辺を、やや無理矢理に演出して、誰もが興味を持つように仕立ててあるわけですけど、「人生の物語り」は「現実」ですから、「演出」はきかないわけで、『それで?だから、何なの?』と言われてしまえば、「イッカンの終わり」なわけですが、「聞く側」が、その「物語り」に興味を持つことで「物語り」として成立した時には、「エンターテイメント」にはない「リアリティ」をもって人の心を感動させたりもするわけです。


そういう、「ソコにある物語り」を見逃しているのって、ちょっとモッタイナイような気がするわけですね。


なにも「ドラマ」や「映画」を見なくても、

隣近所の「おじさんたち」や「おねえさま方」の持っている「物語り」を引き出しさえすれば、じゅうぶんに「話のネタ」には事欠かないんじゃないのかなと。


そんな風に思う、今日この頃であります。


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