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「感情」は一つのモノ



「感情」と言うと、「喜怒哀楽」の四つと言われることが多いわけですが、実は、これは四つのモノではなくて、あくまで一つのモノなんじゃないかと思うわけです。

もちろん、一人の人間の「感情」なわけですから、一つのモノということもありますが、それだけではなくて、「喜び」と「悲しみ」や「怒り」と「楽しさ」などは、どれも、一つでは成り立たなくて、それらが一体化した「感情」としてこそ、成り立つものなんだろうと思うわけですね。


たとえば、「紙」のような、薄っぺらなものですら、「表と裏」があって、はじめて成り立っているわけですから、どのようなものでも「表側」や「裏側」が単独で成り立つということは無いわけです。
まぁ、例えば、文字は「表面」にしか書いていなくても、何も書いていない「裏面」があることで、その「紙」が存在できて、はじめて「表面」の文字を読むことができるというようなことでしょうか?

それと同じように、「感情」のような「非物質的」なモノでも、「喜怒哀楽」の中のどれか一つでは、「感情」として成り立たなくて、それらが一体となったモノだけが「感情」として、成り立つんだと思うわけですね。


どんなに温厚な人の中にも必ず「怒り」はあって、それによって「喜び」や「楽しさ」が輪郭をもって浮き出しているというような感じですね。

もしも、全てが「喜び」で満たされた「感情」を持った「心」があったら、それは、恐らく限りなく「無感情」な「心」に近いもので、ほとんど、何の「感情」もない状態ということになってしまうような気がします。

そうなれば、もう、それを「喜び」と呼ぶことすらできなくなってしまうのではないでしょうか?


つまり、真っ赤な壁面に打たれた「赤い点」は輪郭と言うものを持たないわけですから、存在していると言うことすらできないということですね。


とは言っても、誰でも「怒り」や「悲しみ」よりは、「喜び」や「楽しさ」の方がイイに決まっているわけで、どうしたって、「怒り」や「悲しみ」は無く成ればいいと思うでしょうし、「喜び」や「楽しさ」の方は、出来るだけたくさんあればいいなと思うのが人情と言うものでしょうね。


でも、やっぱり、「喜び」や「楽しさ」を追えば追うほど、「怒り」や「悲しみ」がクッツイテくるという仕組みになっているわけで、そういうのを、「ヒトゴト」として見ていると、『とっても「人間的」だよなぁ。』と思ったりもするわけです『。

でも、ひとたび「自分のこと」となれば、『この「怒り」はどうにかならないのか?』
『この「悲しみ」から、解放してくれ!』と思ってしまうわけなのです。


出来ることなら、そういう「自分」を見た誰かが、『あぁ、あの人、とっても「人間的」だよねぇ』と思ってくれれば、私としては、嬉しいですねと。

そういう風に思います。



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