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『人に迷惑をかけない』と言う発想



子供のころ、よく親や周りの大人から、『人に迷惑をかけてはいけないよ』とか、『人に迷惑をかけさえしなければ、それでいいんだよ』と言われていたと思うわけです。


要するに「人に迷惑をかけないこと」が、「道徳」の基本なんでしょうね。


でも、多くの人が、大人に成ってから気が付くことに成るわけですが、『人に迷惑をかけないと生きていけない』わけなんですねぇ。


これは、ある意味「衝撃的」ですよね。

『それだけは絶対に、やっちゃいけないよ』とか、『これさえやらなければ、ずべて”OK”なんだよ』と言われて、子供だから『そうなんだ』と完全に鵜呑みにしていたことが、それとは、まったく裏腹に、『それをしないと生きていけない』ようなことだったわけですからね。


人間は生きていくうえで、常に『人に迷惑をかけている』し、常に『人から迷惑をかけられている』わけですよね。


『人に迷惑をかけている量』や、『人に迷惑をかけられている量』の差し引きした総計は、

ほとんどの人が、ほぼ同じくらいなのかも知れませんね。


と言うよりは、「迷惑」っていうモノ自体がすごく「相対的なモノ」なんだと思うわけです。

つまり、絶対的な「量」として考えた場合の「迷惑」は、みんなが、同じくらいかけたりかけられたりしていると思いますが、それを「相対的」に捉えることで、「差」が出て来るということなんだと思うわけです。


たとえば、「子供」をとても愛している「親」にとって、「子供」にかけられる「迷惑」は、普通に考えるよりも随分小さくなってしまうモノなんでしょうそれは、「迷惑」ですらなくなってしまうことも多いのでしょう。


単純に言って、「子供」に食べ物を与えることは、多くの親が「迷惑」とも思わずにやっていますが、「他人」から、その人が大人に成るまで、20年間も食事を与え続けることを強要されたら、ほとんどの人が「非常に迷惑」だと感じるでしょうね。


まぁ、それだけ「迷惑」と言う概念が、人の中で、かなり極端に「相対的」に捉えられているということなんでしょう。


こういうことは、他のことでもよく起きていることだと思いますけど、一つの言葉の解釈が、あまりにも幅広くなってしまうことで、時によって、ぜんぜん意味が通じていないことがあるわけです。

つまり、この場合、「人に迷惑をかけてはいけない」と言う時の「迷惑」という言葉が、「絶対的な迷惑」のことなのか、それとも、「極端に相対的な迷惑」のことなのかが、わかり難いわけですね。


それで『人に迷惑をかけてはいけないよ』と言う大人の「教え」を、キッチリと守ろうとし過ぎて、社会の中で生きることが、辛くなってしまう人が居るんじゃないかと思います。


そこで、この『人に迷惑をかけない』を、もう少し詳しく読み解いてみようと思うわけです。


まず、もともと、この『人に迷惑をかけない』と言う言葉は、『”他人”に迷惑をかけない』だったように思います。

この「人」と「他人」が、日本語の場合、同じように「ひと」と読みますから、そこからして、すでに話が少しずれてくるわけですね。


「他人に迷惑をかけない」だと、「身内には少しくらい迷惑をかけてもいいだろう」と言う感じがありますから、そこに、少しは「相対的なニュアンス」が出て来るわけです。


そこには、「他人にかける迷惑」と「身内にかける迷惑」とでは、同じ「迷惑」でもベツモノという、「相対性」が出て来るわけですね。

そこで、「なるほど、身内になら少しくらいの迷惑をかけてもいいのか」ということで、少しだけは「ホッ」とするわけです。


でも、これは「身内」か「他人」か、と言う問題ではなくて、「迷惑」自体が、「極端に相対的」なモノだということですから、「身内かどうか」ということ以外のことでも同じで、要は、相手がそれを「迷惑」と感じなければいいわけですよね。


つまり、同じ「迷惑」でも、「かけられた側」が、れを「大きい迷惑」と感じるか「小さい迷惑」と感じるかで、その「迷惑」の大きさが決まっているわけですから、「かけられる側」が、「迷惑じゃない」と感じるところや、「小さい迷惑」と感じるところを狙って、どんどん「迷惑」をかけるようにしていけばいいわけです。


そう言うと、どうも「自分勝手」な感じになってしまうんですけど、それこそが、「人に迷惑をかけない」が間違って普及しているということなんじゃないかと思うわけです。


「相手が何を迷惑と感じるのか」ということに配慮すること自体が、むしろ、とても「人に気を使っている」ということですから、ぜんぜん「自分勝手」なことではないわけですね。
(「どんどん」は言い過ぎだとしてもね)


全体として、「人に迷惑をかけない」ということは、人それぞれの「迷惑」の感じ方に配慮し、それを調整して、出来るだけ人が「嫌だな」と感じるような「迷惑」を減らしていきましょう。
ということなんじゃないかと思うわけです。


つまり、「迷惑」を完全に無くそうということではなくて、「迷惑」の「落としどころ」を見つけていこうと言うことなんじゃないかと思うわけですね。


昔の時代には、「迷惑」にあまり個人差がなかったんでしょうね。
だから、その辺を、そんなに考えないで『人に迷惑をかけてはいけない』と言えたんでしょう。


でも、現代は、もう少し考える必要が出て来たって言うことでしょうかね。
それだけ「迷惑」にも個人差が出て来たって言うことなんでしょうね。


だから、「人に迷惑をかけない」と言う発想で、生きようとすると、どうやら、生きづらい感じになってしまうようですね。


「自分はぜんぜん人に迷惑をかけていない」と言う人は、

「迷惑」を自分の都合に合わせて解釈しているだけで、

実際には、誰かに対して、それなりにたくさんの「迷惑」をかけているんだと思います。


だから、自分が誰かに「迷惑」をかけていると思ったら、

その相手も必ず誰かに「迷惑」をかけているんだということを思い出して、

まぁ、デキレバその「迷惑」をチョットだけ「小さい迷惑」にする

と言うようなようなことを考えるという程度でいいんじゃないのかなと。


その方が、ただ単に「人に迷惑をかけない」と言う発想よりも、

もう少し「人間的」な感じがするのかなと。


そんな風に思います。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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