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「ソントク」より「カチマケ」



現代社会と言うのは、いろいろなことが、なんでも「勝負」になってしまうわけなのです。


「競争社会」ですね。
それで、とにかく、何でもかんでも「カチマケ」になってしまうわけですね。

こういう状態で、一番困るのは、何でもかんでも「カチマケ」ですから、そこにルールが設定されていませんし、それ以前に、そこで「勝負」が行われているのかどうかということ自体が、ハッキリしないということです。


片方の人が「勝負」なんてミジンも思っていないのに、もう片方が、一方的に「勝負」しているということがよくあるように思うわけですね。


現在では、ほとんどの人が、完全に子供のころから、「競争社会」の中で育ってきていますから、「勝負」が体の芯まで刷り込まれているんでしょうね。

だから、相手側に「競争意識」がなくても、また、そこに「ルール」が設定されていなくても、条件反射のように「とりあえず勝負」にしてしまう人が、けっこうたくさんいるんじゃないかと思います。


そして、更に言うと、「単なる競争」の時点までは、「カチマケ」は「ソントク」を基準にして成り立っていたわけですが、この「刷り込まれた勝負」が出てきたことで、「カチマケ」が「ソントク抜き」になって来ているんじゃないかと思うわけです。

つまり、ちょっと前までなら、「勝負」に勝っていたとしても、何かしら「ソン」に成るようなことになってしまうと、「カチ」とはならなかったような気がするんですけど、現時点では、あまりにも「カチマケ」を優先するあまりに、「ソン」をしていても、一方的な「勝負」でも、また、相手が「勝負」なんてしていなくても、『とにかく勝てばいい』と言うような、完全に「盲目的な勝負」と言うのが出て来たんじゃないかと思うわけです。


そういう「自己満足的な負けず嫌い」になっている人がとても増えているんじゃないかと思いますねぇ。


これは、とても困るんですねぇ。

どんな状況でも、一方的に「勝負」して、一方的に「勝ってしまう」わけですから、やっぱり困りますよね。
しかも、現在の日本では、こういうのが否定されないんですね。

ときどき、本当にビックリすることがありますけど、この「自己満足的な負けず嫌い」の人が、明らかに、誰も参加していない「勝負」を一方的に仕掛けて、明らかに、無理のある「勝利宣言」をして、『どーや?』と言わんばかりの状態なのに対して、まわりの人たちが、『パチパチパチ、お見事!』と言っていることがあったりします。


そういうのを、「ポジティブ」と言っている人をよく見ますが、「ポジティブ云々」以前に、『取り敢えず、否定しなさいよ!』と思ってしまうわけなのです。


そういう時に、「否定」するよりも相手にしない方が効果的だという人もいますが、その結果が、今の状況なんじゃないかと思いますね。

つまり、「野放し」ですね。


このこと以外のことでもそうですが、「イイ」と思っていないことを、「否定」しないのは「逃避」でしかないですね。


そういう「デタラメ」は放っておいても勝手に崩壊するんだ、と言うのは、『「警察」がなくても、「犯罪者」が勝手に滅んでいくから大丈夫』と言っているのと変わらないですね。

何事にも限度があるわけで、確かに放っておいても滅びてしまうようなものを、あえて、追究して、トッチメル必要はないでしょうが、明らかに「膨らんできている問題」を放置するのは、ただ単に、「それができないから」、そして、「それができないことを認めたくないから」に他ならないわけです。


「できる・できない」とは別に、「悪いもの」は「ワルイ」と「言葉」にして言った方がイイように思いますね。
それでないと、何が悪くて、何が悪くないのか、ということが無く成ってしまうんじゃないでしょうか?

 ※ここで言っている「悪いもの」というのは、究極的な「悪」の話ではなく、
  人それぞれの中にある「善悪」の中の「悪」です。
  ときに、『自分には「善悪の基準」はない』という人もいますが、実は、そ
  ういう人の中にも必ず何らかの「善悪の基準」はあると思います。
  それでないと、その人は何の行動もできないはずですから。

  その人が何かをするということは、それを「ワルイ」とは思っていないと言
  うことですからね。

現在の社会は、そう成りつつあるような気がすることがよくあります。
「善・悪の基準」が曖昧になって来ているということですね。


哲学的な思考に置いて、「善・悪」を考えることよりも、その前に、もっと当たり前のこととして、つまり、自明のこととしての「善・悪」を基準にしなければ、どんな話も成り立たないわけですから、そういう、当然の「悪」を「悪」と呼ばずして、なんと呼べばいいのでしょう?

 ※人間は、必ず何らかの「善・悪の基準」を「自明のこと」として、持ってい
  ると思いますね。
  それを持たないという人が居るんでしょうか?
  もし、「善・悪の基準」を持たない人が居るとしたら、
  その人は、何を基準に「思考」し、何を基準に「話す」のでしょうか?
  また、何の基準もなく「考えられたこと」を「思考」と呼べるのでしょうか?

また、それを言葉にして言わないことに、いったいどんな理由があるのでしょうか?

そんな風に聞きたくなってしまうわけなのです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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