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「迷わずに迷う」ということ



このブログでも何度か書いていることなんですけど、「迷うこと」は、「芸術」と根本的に関わりがあることなんじゃないかと思っているわけです。


そういう「迷い」ですから、そこに「躊躇」があってはいけないと思うわけですけど、「迷い」なのに、「迷ってはいけない」ということに成ると、どうすればいいんだ?と言うことに成るわけです。

でも、これは、そんなに複雑なことでもなくて、もともと「迷い」は、自然に発生するものですから、とくに「迷おうとする」必要もないし、「迷い」自体を追究する必要も全く無いわけです。

追究することは、ほかにあって、それを追究していると、どこかで必ず「迷い」が発生してくるということでしょう。

それを、敢えて排除しなくてもいいんじゃないか?というだけのことですね。
その『あえて、排除しない』という部分を『迷わずに』と言っているわけです。


そういう意味で「迷わずに迷う」ということを考えているわけですが、これは、『「迷うこと」が、「芸術」に置いて唯一の「迷わずにできること」である』と言い換えることもできるわけです。


「芸術」に置いては、「ナニカを追究すること」が求められると思っていますから、何を追究するかは、人それぞれなんでしょうが、必ず、ナニカは追究しなければならないんだと思っています。

そして、人間がナニカを追究すれば、必ず「迷い」が発生するんだと思うわけです。


そんな中で、「迷いがあってはならない」などと言うように、「迷い」を「マイナス方向の要素」として考えてしまうと、「迷わずにできること」が無く成ってしまうわけです。


「芸術」→「追究」→「迷い」と言う、必須の方程式の中で創作することから逃れられないのだとすれば、「迷い」は「脱出するべきもの」ではなく、「そこに留まり続けるべきもの」なんだと思うのです。

たとえ、一時的に「迷い」を「脱出」したとしても、必ず、また「迷い」は発生してきますから、「脱出すること」に力を使い果たしてしまうよりも、「追究」と「迷い」の繰り返しこそが「芸術」の本質であるということを認めて、そこに留まるという決断もあっていいんじゃないかと思うわけですね。


それ以前に、「迷い」無くして創作されたモノよりも、「迷い」の中から生み出されたモノの方が、必ずや、深い位置に行き着けるということもあるんだと思っております。


さらに言えば、「迷い」が現れているモノは、必ずや「美しいモノ」であると、「迷い」無く”描き割り”された「スバラシイ絵」などに何の「芸術的な意味」があるのかと。

そんな風に言いたいわけなのです。


「イイ・ワルイ」ということではなく、『それが、芸術の中心に近い所にあると言えるのか?』ということですね。


まぁ、あくまで、自分に対して言っているわけですけどね。




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