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「言語の領域」が「本能の領域」を超えようとしている?



人間には「本能」と「理性」と言う拮抗する二つの領域があるということに成っていますが、実際には、その二つは分けることが出来ないもので、どこからが「本能」で、どこからが「理性」なのかは、誰にも線を引くことは出来ないんだと思うわけです。


そんな中で、もし仮に、この二つの領域に「境界線」があるとしての話ですが、人間にとっての「理性」に当たる「言語の領域」が、人間にとっての「本能の領域」を圧倒して、その「境界線」を越境しようとしているように感じることがあるわけです。


言い換えるならば、「理性」が「本能」の領域に食い込んできているということですね。

つまり、「言語の領域」が人間にとって、必要不可欠になり、さらに、無意識の領域に成りつつあるということです。

と言っても、もちろん人間は、教えられなければ「言語」を話せるようにはなりませんから、無意識とも言い切れないわけですが、少なくとも、親がしゃべっているのを聞いているだけで、ほとんどの人が言葉を覚えてしまいますし、覚えた後は、放っておいてもけっこう小難しいことを言い出だすように成るわけですから、かなり無意識に近いと言えるでしょう。


つまり、「言語」自体は「本能的」なものでないとしても、「言語」を与えられたうえでの「言語を使った思考」については、かなり「本能的」と言ってもいいような気がします。


実際、『考えるな!』と言われても、なかなか「考えないでいること」などできないモノですよね。
要するに、それくらい『無意識でやっている』ということなんじゃないでしょうか?

つまり、「言葉を話すこと」や「言葉で考えること」が、「人間の本能の一つ」に成りつつあると言ってもいいような気がするわけです。


そして、これは単なる「言語の領域」だけの問題ではなくて、その「言語」から派生しているあらゆる「思考」を含んだ話に成りますから、人間の精神活動の大部分が含まれると言ってもいいんじゃないでしょうか?

実際、人間の精神的な活動は「言語」を通して行われていることが多いでしょう。
逆に、「言語」を通さずに、何かの精神的な活動をしろと言われても、なかなか、できるものではありませんよね。


たとえば「芸術」や「音楽」には「言葉はいらない」なんて言われますけど、その「芸術」や「音楽」だって、まったく言葉を介さずに生み出されることはむしろ稀で、何らかの「言語的思考」の上に立って生み出されていることが多いんだと思いますね。
(これは「芸術の鑑賞」にも言えることだと思います)

それを、否定する人もいるかもしれませんけど、その人は、それを否定するにも「言語」を使わなければならないわけでしょうから、
「言語」から逃れているともいえないし、それを言うことにあまり意味も無いような気もします。


まぁ、要するに、それだけ「言語の領域」が、人間の精神活動に密着しているということだけは言えるんじゃないかと思いますね。


そして、その「言語の領域」が「本能の領域」に食い込んできているということは、もはや「純粋な本能の領域」と言えるものは、存在するのだろうか?と思ってしまうわけなのです。

つまり、本来ならば「本能」と対極にある「理性」を構築するための基本アイテムである「言語」が、「本能の領域」にクロスオーバーするということは、しかも、その「言語」が人間のほとんどの精神活動に関わっているということは、旧来の考え方で言うところの「本能」と言い切れるようなものが、無く成りつつあるということに成るわけです。


たとえば、人間には「性欲」と言う「本能」があるわけですけど、そこに「愛情」と言う「言語」が関わると、それが「純粋な本能」と言い切れなくなってきますし、さらに、「異性をゲットすること」を『ステータスとして捉える』というような、「性欲の言語化」に当たることが関係してくると、もはや、それは「純粋な本能ではない」と言わざるを得ないような気がします。


もちろん「愛情」も「ステータス欲求」も本能的なものだとも言えるわけですけど、そこには、かなり本能的ではない部分も関係しているということですね。

まして、そこに「ソントク勘定」のようなものや、その逆に「ソントク抜きの理性的な行い」が入ってくると、それは、「言語化」されていると言ってもいいんじゃないかと思うわけです。


結果的に、現在「純粋な性欲」ってあるんでしょうか?ということなわけです。
つまり、「ソントク勘定」や「ソントク抜き」が一切かかわらない「性欲」ですね。

そういう「性欲」ってごく普通に一般的な知識を持っている人にあり得るんでしょうか?
また、そういう「ムキダシの性欲」をもって生活していて、「性犯罪」などを犯さないでいられるものなんでしょうか?


「法」も一種の「言語」ですから、「法」を守って「犯罪」を犯さないということは、その「行い」は「言語化」されている、つまり、「それは純粋な本能ではない」と言えると思うんですがどうなんでしょう?

他の動物を見れば明らかなことですけど、人間だって、「法律」とか「道徳」と言う「言語」による拘束が全くなければ、異性に対して「性欲」を感じた時、当然、少しくらい強引にでも「性行為」に及ぼうとするでしょうし、それは、動物としてごく自然なことでしょう。


さて、そこで「どちらが人間の本質に近いことなんでしょうね?」ということになるわけです。


「本能」の赴くままに、「強姦魔」になることと、「言語化された理性」に従って、「性欲」も「理性的」に使用することと、どちらの方が、現在形の「人間の本能」に成るんでしょうか?


「性欲」が、間違いなく「本能」だとしても、「強姦」は、間違いなく「本能」だとまでは言えないんじゃないでしょうか?


人間以外の動物においては、それは間違いなく「本能」だと言えると思うわけです。
チガウのは、「強姦」と言う「言語」を持っているかどうかと言う点だけですね。

つまり、人間の場合、その分だけ「本能の領域」が「言語の領域」に食い込まれているわけです。


現在の人間においては、必ずしも、「強姦」=「自然な行い」=「本能的」でもないし、「理性的な性欲」=「不自然な行い」=「本能から遠い」でも無いような気がしますね。

むしろ、「理性」を一切含まない行為が「不自然」に見えることの方が多いんじゃないでしょうか?


要するに、それだけ人間が、「理性」を体得しつつあるということなんだと思います。


ただ、このことがあまり認識されていないために、「本能の領域」と「言語の領域」が融合できないことがとても多いように思うわけです。


既に、人間にとって、「理性」は「楽しむもの」に成りつつあると思いますし、それは「本能的な欲求」をしのいで、十分に余りある段階に達しているような気もするんですが、そのことが、あまり理解されていないために、いろいろなことが、「本能」と「理性」の二者択一であるかのようになってしまっているわけです。


実際には、もう人間はその位置に立っては居なくて、「純粋な本能」でも「純粋な理性」でもない、その二つを融合した「新たな領域」に立って居るんじゃないかと思うわけです。


そんな考え方をしていくと、「理性」=「ガマン」でもないし、「理性」=「本能の抑圧」でもなくて、「本能」=「抑圧からの解放」でも、「本能」=「自然」でもないわけで、その二つの間で、さまようことこそ、現在の人間にとって、「最も開放的な行為」なんじゃないのかなと。

そんな風に思っているわけです。



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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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