「不思議」と「可思議」
「不思議」があるなら、「可思議」だってあってもいいんじゃないかと思うわけです。
「不思議」があって、「不可思議」まであるのに、なんで、「可思議」だけないんでしょうね?
それこそ「不思議」ですよね。
ここで言う「可思議」は、要するに「わかっていること」ってことに成りますね。
まぁ、実際には「わかっている」ということにしているだけなんでしょうが、それでも、あまり問題にならないようなことと言うところでしょうか。
「不思議」と「可思議」には、それぞれ役割があると思うわけです。
だから、「不思議」なことを無理にわかろうとしたり、厳然とした動かしがたいことのように扱ってしまうことや、「可思議」をあまり極端に疑ってみることなどは、「不思議」や「可思議」の持っている役割をつぶしてしまうことであって、あまり有効なことでも無いような気がするわけですね。
そこで、「不思議なこと」を信じている人と信じていない人と言うのが居ると思うわけですけど、そもそも、「不思議」は「ワカラナイコト」なわけですから、信じることは出来ないと思うわけです。
それなのに、信じている人はモノスゴク信じてるし、反面、信じない人となると、これまたモノスゴク「絶対信じない!」っていうカマエに成っていて、その中間の「不思議本来の姿」、つまり「ワカラナイコトと言う姿」が、ほとんどなくなってしまっていると思うわけです。
今の時代にあっては、とにかく「神秘的なモノ」が好きな人は、「スピリチュアル」でも、「UFO」でも、「心霊現象」でも、「不思議なモノ」はなんでも大好きだし、嫌いな人は、そういうものをすべてメノカタキのように嫌っているように見えますね。
でも、そういう「不思議」は「不思議」と言う位置にあってこそ効果的に機能するものなんじゃないかと思うわけです。
それを「ワカッタコト」=「可思議」としてしまうと、せっかくの「不思議な領域」が無く成ってしまうわけですね。
とにかく、「不思議好き」の側の人たちも、「不思議嫌い」の側の人たちも、「不思議」に説明をつけようとし過ぎるんじゃないかと思うわけですよね。
そうまでして、どっちかに分類しなくてもいいんじゃないかと思うんですね。
どっちかに分けるんじゃなくて、「不思議」に分類する方がイイんじゃないですか?
誰が見ても明らかなことは、「可思議」で問題ないでしょうし(実際、世の中のほとんどのことは「可思議」だと思いますしね)、残りの、ごくわずかな「不思議」は、わからないままにしておいてもいいんじゃないのかなと。
ま、そんな風に思うわけですね。
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