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「自由」は「イイモノ」なのか?



「自由」・「平等」・「平和」、近代社会の三原則ですよね。
でも、最近「自由」って、本当に「イイモノ」なんだろうか?と言う疑問を持っているわけです。


要するに、「自由」がとっても「不自由」に感じることがよくあるんですねぇ。
特に、最近、そういうことが増えたような気がしますね。


いま、自分が生きていて感じる限りで言うと「自由っていいなぁ!」と感じることが意外と少ないわけです。
それどころか、ほとんど無いっていうくらいかもしれないですね。
(「奴隷」と比べてとか、そういう極端な話じゃなくてですよ!)


これは、最初に挙げた「自由」・「平等」・「平和」の問題なんだと思うわけです。

この三つは、たぶんワン・セットなんですね。
三つがワン・セットじゃないと機能しないんじゃないかと思うわけです。


でも、例えば「平等」ですけど、今の世の中が「平等な社会」に成っていると思っている人っているんでしょうか?

もちろん、形の上では、一応「平等」だし、昔に比べれば、かなり格差は小さく成ったわけですが、本物の「平等」ということに成ると、『そんなもん、あるわけないじゃないですか!』と言う人の方が主流じゃないでしょうか?
っていうより、ゼンゼン「平等」なんかじゃないですよね。

まぁ、それが事実だと思います。


ところがですよ。

「平等じゃない社会」で、「自由」が与えられるということは、当然、その「自由」とは、「みんなにとっての自由」ではなくて、「権力者にとっての自由」なわけです。

いくら、「自由」があっても、それを都合よく使えるのが権力を持っている者だけだとすれば、それは、本当の意味で「自由なこと」だとは言えないわけですよね。
つまり、「自由」によって、「権力」が増幅されてしまうような仕組みになっているんですね。


こんな事を言うと、『それは被害妄想だろう』と言われるような気がしますけど、そんなことは、無いと思いますね。


たとえば、「報道の自由」と言うのがありますけど、実際に、「国家権力」は「マスコミ」や「報道」をコントロールすることも可能ですし、「国家権力」以上に強いのが、「経済のチカラ」です。

現在の社会で、「マスコミ」だろうが、「報道機関」だろうが、いや、それどころか「国家」ですら、
如何なるものも、「スポンサー」に逆らえるものは存在しません。

つまり、「スポンサー」の「資本力の大きさ」で「報道の影響力」」が決まってしまうわけですから、けっきょく、その「報道の自由」とは、「大資本のための自由」であって、一般人など「資本を持たない者のための自由」ではないということです。

と言うよりも、「自由の名」の下に、「一般人の自由」が踏みにじられることが、公認されてしまうわけですね。


その上、更に、たちが悪いことに、「一般人たち」は、その「自由」が自分たちを守ってくれるものだと信じ込まされていますから、じつは、自分たちを踏み潰すだけで、肝心な時には、あまり自分たちを守ってくれない「自由」を、必死になって、それはもう、命がけと言ってもいいくらいに懸命に守ろうとするわけです。

そして、「自由」を死守したことに満足してしまって、その「自由」が自分たちを縛り付けていることを、見過ごしてしまうわけです。

「権力」や「権力者」に問題があると思ってしまうんですね。
確かにそうではあるんですけどね。
でも、「自由」が、それを公認してしまっているわけです。


だから、「本物の平等」が確保されていない状況では、「自由」は、ほとんど機能しないと思っていたほうがいいんじゃないかと思うわけです。


今の世の中では、「本物の平等」を確保することこそが、最も大切なことで、その為には、「人権」が確立されなければならないわけです。

これは、「格差」を「ゼロ」にするということではなく(それは不可能でしょうし、そこまで厳密な「平等」に大きな価値があるとも思いません)、一人の人間の力で、ある程度の余裕をもって乗り越えられる範囲の「格差」に収めるということです。


それまでの間は、「自由」なんてほとんど役にも立ちませんから、あまり、懸命に成ってまで守らなくてもいいんじゃないのかなと。
と言うより、「権力者にとっての自由」を「権力者」が手放すはずないんで、ある程度、放っといても意外と「自由」は無く成らないと思いますね。

「自由」よりも「平等」を守る方に力を使った方がイイように思いますね。
「自由」は、まぁ、「スベリドメ」ぐらいのもんですか?


つまり、『あると、ヒジョーニ助かる』ではなくて、『無いと、もっとヒドイコトに成る』っていうぐらいですね。
要するに、「百姓は生かさず殺さず」みたいな感じですか?


そうは言っても、昔の方が「格差」や「身分の差」が大きかったのは事実なんでしょうが、「現在の自由な社会」で「自殺」や「イジメ」、「ヒキコモリ」、「鬱病」等々が、これだけたくさんあるということを考えると、果たして、どれほどよく成ったのか?と言う疑問があるのも事実ですよね。

要するに、「自由な社会」が実現したことで、手に入ったものはと言えば、こんな風に「自由について考えたり言ったりすることの自由」ぐらいということでしょうね。


そんな風に”自由に”思いますね。

『いや、”不自由に”か?』




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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