「死を恐れること」
世のなかのすべての「恐れ」の根源が「死を恐れること」なんじゃないかと思うわけですね。
とにかく、どんなことでも「死」を恐れないでいられたら、ほとんどのことを、恐れないでいられるようになるんじゃないかと思うわけです。
つまり、どんな「恐れ」でも、元をたどって行くと、最後には「死を恐れること」があって、そこから、すべての「恐れ」が発生しているように思えるということですね。
確かに、「病気に成ること」でも「怪我をすること」でも「飢えること」でも、ありとあらゆる「恐れ」が「死」に通じているようにも見えるんですね。
ところがですねぇ。
「生きていること」っていうのも、けっこう「恐ろしいこと」なんじゃないのかなと思ったりもするわけです。
と言うよりも、「生きていること」で「死を恐れること」も生まれているわけで、生きていなければ、「恐れること」もないわけですから、
「生きていること」が、唯一の「死を恐れること」を上回る「恐ろしいこと」なのかも知れませんね。
それなのに、どうして「生きていること」は「恐ろしいこと」だと言われることがほとんどないのでしょう?
これは、たぶん、『永遠に生き続けることは絶対にない』という前提があるからなんじゃないのかなと。
実際、「生きていること」と言った場合、それを、ちっとも「恐ろしい」と思わないのに、「永遠に生き続けさせられること」と言った場合には、突然、それは「底知れないほど恐ろしいこと」のような気がしてくるわけなのです。
だから、「不老不死」は人間の究極の願望だ、みたいなことをよく言いますけど、あれは、リアリティがないから言えることで、本当は、「究極の願望」どころか「究極の恐ろしいこと」なんじゃないかと思うわけですね。
そうなると、『自分が生かされていることに感謝しています』という言葉をよく聞きますけど、あれなんかも、『自分が永遠に生かされる』としたら、「感謝」できるんでしょうか?
いや、皮肉ではないですよ。
ただ、「生きていることの恐ろしさ」を知ったうえでこそ、本当の「生きることへの感謝」っていうのがあるんじゃないかと思うということですね。
まぁ、それはさておき、「死を恐れること」の方ですけど、取り敢えず、「生きることの恐ろしさ」の方は、なかなか「永遠に生きること」に現実味を感じられないので置いといて、やっぱり、「死を恐れること」が無く成れば、「怖いもん無し」なんじゃないかと思ってしまうわけですね。
よく『死ぬ気に成ったらなんだってできる』みたいなことを言いますけど、確かに、『死んでもイイや』と思ったら、ほとんどのことが、怖くなくなるんじゃないのかなと思います。
でもですね、『いや待てよ』と、もうひとつだけ、「恐ろしいこと」があると思うんですね。
それは、「恥をかくこと」なんですねぇ。
これは、人間だけの特徴なんでしょうが、人間は、「恥をかくこと」をとても恐れているんですねぇ。
と言っても、ちょっと恥ずかしいっていうんじゃなくて、自己のアイデンティティーを失ってしまうような「恥辱」ですね。
これは、ほとんどの人にとって「恐ろしいこと」と言えるんじゃないでしょうか?
ということで、「死を恐れること」と「生きることを恐れること」と「恥をかくことを恐れること」
この三つから逃れられれば、完全に「怖いもん無し」ですね。
『・・・・・・・無理ですね』
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