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「抽象表現」の現時点での目的はナニなのか?



「抽象表現」の目的っていったいナニなんでしょうね。

 ※『そんなことに目的などないんだ!』
  『イイかワルイか、好きか嫌いか、それだけで十分だろ!!』
  などと言って、このあたりのことを誤魔化してきたように思うわけですね。
       
  実際には「目的」はあるんだと思いますね。


現在、「具象表現」だけで、「芸術」を論じようとすることには、若干の、いや、「かなりの」と言うべきでしょうね、どっちにしても無理があるような感じがするわけですが(まぁ、「抽象」だけでも無理ですけどね)、『それはなぜなのか?』と問われると、なかなか答えられないということがあるように思うわけです。


なんで、「具象」だけで「芸術」を総括出来ないんでしょうね?
(「抽象」についても同じことが言えるでしょうが)

要するに、「抽象表現」がなぜ必要なのか?と言うより、「抽象表現」は「芸術」にとって、本当に必要不可欠なのか?と言う、そのあたりが、やや、漠然としているんじゃないかと思うわけですね。


現在言われているような「抽象表現」が現れてきた当時のことは、今となっては、想像の域を出ないので、はっきりとはわからないと思いますけど、「美術史の流れ」を追って推察すると、その時点での「抽象表現」の第一の目的は、「芸術」の行き詰まりを打開することだったのでしょう。
そして、もう一つの目的は、「芸術」をより「精神的なモノ」にすることだったんじゃないかと思うわけです。


さて、そこで、当初の目的に戻って考えると、もともとの目的であった「行き詰まりの打開」は出来たんでしょうか?
「芸術の精神性や純粋性」は確保されたのでしょうか?

確かに、一時的には「芸術」に「新たな展開」が見えたり、「芸術」が「純粋に精神的なもの」であるかのように見えて来たことがあったのかも知れませんが、現在振り返ると、どちらも”やや怪しい”という感じがするんですがどうなんでしょう?


それどころか、「抽象表現」は、「行き詰まりを打開する側」と言うよりも、その「行き詰まりの側」に成っていないでしょうか?

「抽象芸術」が「最も商業的、或は、娯楽的な芸術」に成りつつあると言えないでしょうか?


もしも、本来の目的が達成されないまま、百年以上も経ってしまっていて、現状が、本来の目的と大きくズレてしまっているんだとすれば、その「抽象表現」って、まだ必要なんでしょうか?

もしかしたら、「具象」に戻ってしまった方がイイんじゃないでしょうか?


いや、それでも、やっぱり「具象」に戻ってはダメなんじゃないかと思うわけです。
いえ、「具象」がイケナイという話ではないですよ。
「具象」と「抽象」の間の大きな隔たりは、もう必要ないように思いますし、「具象」と「抽象」は正反対のモノではないということも、すでに、わかっていることだと思うわけです。


つまり、「具象」がイケナイということではなくて、どのようなものでも、一か所に漫然ととどまっていてはイケナイんじゃないか?ということですね。

そして、「抽象」も、すでに一か所に漫然ととどまっているように見えるわけです。

実際、「抽象表現」にしても「現代美術全般」にしても、「新しいカード」が出尽くしてからでさえ、もう半世紀くらいは経っているんじゃないでしょうか?
(それ以前に、その「新しいカード」が「切り札」でもなかったような気もしますし)

このまま留まって居れば腐敗していくだけでしょう。


しかし、当初の目的である、「行き詰まりの打開」と「芸術の精神化・純粋化」が、宙に浮いてしまっていますから、そこに立ち返って、「芸術に新たなステージを開拓すること」と、「そこで芸術の純粋化・精神化を推し進めること」が必要に成ると思うわけですね。


その「新たなステージ」では、「具象を排除する必要」もないし、「抽象を極化する必要」もなく、「その二つを融合する必要」が生じて来ると思っています。


つまり、「芸術」を精神化して純粋性を高めるためには、「抽象性」が必要に成るでしょうし、それを表現としてより強く伝えていくためには、「具象性」と言う「肉体性を持った媒体」が必要になってくるわけです。

 ※これは、ただ単に「具象と抽象の折衷」ということではなく、「具象性」と
  「抽象性」を兼ね備えたような「表現」と言う意味ですが、必ずしも、「表
  現上のスタイル」ということではなくて、どちらかと言うと「意識」の問題だ
  と思います。


結論として、「抽象表現の現時点での目的」とは過去において、「具象性」を排除してしまったために、「肉体」を失って亡霊のように彷徨っている「抽象表現」に、「肉体性」を与え、「精神性」と「肉体性」を両立させることで、「具象」と「抽象」の分け隔てのない「芸術表現」としての、新たな芸術の領域を切り開くことだということです。

これは、「具象」と「抽象」を対極に置いて考えてしまうと成り立たない話だと思うわけです。


そして、こういう試行錯誤を続けることが、「現状に漫然と留まっていない」と言う、「芸術の姿勢」を示すことにも成るんだと思います。


「具象」であっても、「抽象」であっても、現在の状態に留まってしまうことと言うのは、「芸術表現としての腐敗」を意味するのではないでしょうか?


そんな風に思いますが、いかがでしょうか?










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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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