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 ⑶具体的な≪喪失≫について                1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと/ 「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう


 さて、我々は≪芸術の20世紀 喪失≫及び≪芸術の100年回帰≫に向けて船を漕ぎ出す決意を固めたわけだが、具体的には何をすればよいのだろうか。

以下に、現在の時点で考えられる範囲の具体的な「喪失」について記しておく。
ただ、ここでも新たな発想は生まれてくるであろうから、当然その都度内容を修正していかねばならないだろう。

 

1.≪芸術の20世紀≫から学んだこと /  「天才の時代」は終わり、「挑戦の時代」は続くだろう


ここまで≪芸術の20世紀≫から脱出することばかり書いてきたが、≪芸術の20世紀≫から学んだこともある。
≪喪失≫の手順のはじめの一歩として、喪失するべき世紀からの教訓を確認しておきたい。


まず挙げておきたいのが「挑戦する姿勢」である。

≪芸術の20世紀≫は挑戦し続けた世紀でもあったと思う。
振り返ると、常に何かに駆り立てられるように挑戦と破壊を繰り返していたように見える。

それこそが「20世紀の急進」を生み出した原因の一端でもあったわけだが、結果的に「混迷の渦」になり、100年後の私たちを身動きのできない状態にまでしてしまったことは、やはり肯定できないが、その「挑戦する姿勢」と「勇気」には素直に敬服する。

そして今、未知への船出をしようとしている我々は、ここで学んだ「挑戦する姿勢」と「勇気」をさらに増幅させて、より大きなチャレンジに臨まなければならない。

われわれは、「彼らにできなかったこと」を求めているのだから、当然それなりの強さを要求されるだろう。


あらゆるものに挑戦し続けた彼らができなかったこととは、時代の要求に逆らうことではないだろうか。

なぜなら≪芸術の20世紀≫において時代の要求に逆らうことは、即ち時代から抹消されることを意味し、それをした者は必ず歴史から消えているからだ。

時代の要求を拒絶したがために消去された者たちの悔恨の念を心に抱きつつ、いま、私たちはその時代を喪失しようとしているのだ。


「消去される側」であった個々の「人間」とその「思念」が、逆転して消去する側であった「時代」を喪失できるか否かは、われわれ一人ひとりの「挑戦する姿勢」と「勇気」にかかっている。

だからこそ、≪芸術の20世紀≫の持っていた「挑戦する姿勢」と「勇気」をもって、≪喪失≫へ向けてのはじめの一歩としたい。


そしてもう一つ、≪芸術の20世紀≫から学んだこととして、先にも触れた「天才神話の崩壊」を挙げておきたい。
より正確に言うなら、すでに100年以上前に崩壊し形骸化していた「天才神話からの脱却」と言えるだろう。

これは「20世紀の誤謬」の中でも≪芸術の20世紀 喪失≫後にも根強く現れてきそうなものの筆頭に挙げておくべきものだと思っている。

これを排除できないと、きっとまた「誤謬」にはまりこんでしまうだろう。


まず、≪天才≫とはそもそも何なのだろうか。

もっとも単純に言えば、『子供なのに大人以上のことができる者が天才である』と言えるだろう。
≪天才≫=「子供」とは言えないまでも、≪天才≫の典型が「子供」なのである。

実際、大人になってから頭角を現した者が≪天才≫の名で呼ばれることはあまりないが(あっても大抵の場合「実は彼は子供のころから凄かった」というのが付いていたり、また若いうちに死んでしまった者をあとから「天才」と呼ぶ場合なども多い)、少なくとも、「子供」だと簡単に「天才」と呼ばれる傾向は間違いなくあるだろう。

しかし、現代の芸術において子供のうちに何ができたかということに、大した意味があるとは思えない。

これはもともと古典の時代に一元論的な意味において、(一神教であるキリスト教の影響力が強かったためだろう)類稀なる才能を持った者を取り上げて≪天才≫の名で呼んでいたことの名残りであり、現代(20世紀以降)の多元論化した芸術観においてはほとんど無意味だとしか言いようがない。

要するに一つの目標(=正解)に向かって頂点に近づいた者こそが≪天才≫であり、さらに幼くして登りつめた者が、≪神童≫であったわけだから、一つの目標(=正解)を設定すること自体が無意味になった現代において、≪天才≫という言葉はただの宣伝文句に過ぎないのである。


言い換えれば、『≪天才≫の時代は終わった』
いや、『それは100年以上も前にとっくに終わっていた』ということだ。


以上のことから、今後この≪天才≫の文字に踊らされることは害にしか成らない。

都合よく宣伝に利用されたこともあるが、それ以上に一般の心理の中に≪天才≫待望論のようなものがあったことによって、(この点は現在に至っても全く変わっていない)「天才神話」が形成され易い土壌が作り上げられてしまったように思う。

おそらく、神的世界観の崩壊がまだ受け入れられていない時期に、(完全に崩壊していたわけではないが、その絶対性は崩壊していた)「20世紀の急進」に晒された人々が、心のよりどころを失った不安を補うべく、「神の子」(神童)である「天才」と言う「象徴」に、既存の宗教における「神」と同質の「絶対的な価値」を見つけて、そこに漠然とした安心感を抱いてしまい、それを「神話化」し、知らず知らずのうちに強固なものとし、自ら築いた「神話」の中で踊らされるという結果に至ったものと思われる。

≪芸術の20世紀≫において、既存の宗教的道徳観を破壊したり嘲笑したりすることを「斬新」と言い、そのような芸術を「天才」による「傑作」としながらも、その「天才」には既存の宗教的「神話」を重ね合わせて安心するという、矛盾した状況があったのは確かなことだろう。

ましてその矛盾を認めたくないがために「神話」にすがりついて「天才」や「傑作」を偶像化したとなると、もう、それは滑稽と言われても仕方がない。

またその滑稽さに気付いていた者も気付いていなかった者も、その「時代の要求する滑稽」に逆らうことはできなかったのだろう。

この事に限って言えば、まだ見えない先の時代を見据えていなければならないはずの芸術者が、今という目に映っている時代しか見ていなかったという点で、20世紀の巨匠たちは批判されるべきであろう。

※「芸術者」:「創作者」・「鑑賞者」・「批評者」の三者を指す。
この三者を、完全に対等な関係として考えるために「芸術者」という言葉を使っている。
  

しかし、巨匠たちを批判している暇はない。
もはや、我々は「神話」の崩壊にいちいち動揺する必要はないのだ。

実を言えば、私たちはとうの昔にそれらの不安から抜け出している。
それなのに形骸化した≪天才≫だけがお決まりのセリフのように使われ続けてているのは、経済的な根拠に基づいてのこととしか思えない。
それは、「芸術」とは全く無関係で無意味としか言いようがない商業的なキャッチ・フレーズに・過ぎない。
この迷信と化した伝説を断ち切らなければ、また「虚構の世界」を築き上げることに成ってしまうだろう。


ここで明言しておきたい、≪新生芸術の20世紀≫においては、≪天才≫も≪凡人≫も≪普通の人≫も全く関係ない。

そしてあえて付け加えるが、幼少期に高い能力を示したということも全く無意味である。
今後も「~才にして~が凄い」はさんざん現れるだろうが、それらはすべて「商品」としてプロデュースされた「天才」や「神童」であり、「芸術」とは無縁の商業的な分野におけるコマーシャルであって、その子は「天才」という役どころを演じさせられているだけなのだ。

そして何より悲しく思うのは、その子たちがどんな感性を持っていたとしても、その感性は、その幼い時期に、「時代の既成概念」と「商業的なオモワク」によって、ひどく傷つけられてしまうだろうということだ。

現時点においては、能力の高さではなく能力の限界に近づくことに芸術の価値があると考えるべきである。
(幼児に能力の限界に近い作業をさせることは、私には不適切なこととしか思えない。また場合によっては危険ですらあるかもしれない。)


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以上、二つの≪芸術の20世紀≫から学んだことを挙げたが、≪喪失するべき世紀≫のことをはじめに書くのは矛盾していると言われれば認めざるを得ない。

しかし、≪喪失≫といっても実際に消えてなくなるわけではないから、必ず観念の中に、それらの断片が残り、ときによって顔を出してくるだろう。
だからこそ、先回りしてある程度予見される事態に対処できるような「癖」をつけておく必要がある。

そして実は、この「先回りできること」が≪100年回帰≫の最大の利点なのである。
但し、当たり前だがこれをあまり多用すると≪喪失≫の意味がなくなってしまう。

そこで、最も活用できそうな「挑戦する姿勢」と、逆に最も警戒すべき「天才神話」の二つを挙げたというわけだ。

 











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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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