「わかりたいと思うような絵」
「抽象画」って、本当のところで言うと、作者本人以外の人には、ほとんど伝わらないんじゃないかと思うんですよね。
まぁ、それを言ったら、モトもコもないんでしょうけどね。
確かに、それでも、一所懸命にやれば、ナニカシラは伝わるんだと思いますけど、本当のところで、『作者が伝えたいようなことが伝わるのか?』って言うことですよね。
伝わらないと思いますね。
『じゃあ、なんで「抽象画」なんてやってるんだよ!』って言われるんでしょうね。
まぁ、要するに、その辺からして伝わりにくいということなんだと思います。
でも、これは当然のことなんだと思うわけです。
「具象画」が「共通言語」で話しているんだとすれば、「抽象画」は、その人の「オリジナル言語」で話しているようなものですから、なかなか相手に伝わらないのは当たり前でしょう。
それで、「抽象芸術」においては、これまでずっと見る側の人に対して「ワカレ!」と言ってきたように思います。
割と、上から「ワカレ!」と言う場合と、割と、低姿勢で「ワカレ!」と言う場合があるだけで、ほとんどの場合、どこかしらに「ワカレ!」と言う姿勢があったように思います。
また、本人が「ワカレ!」と思っていなくても、抽象芸術を取り巻く空気の中に、そういう「ワカレ!」というプレッシャーが含まれてしまっているとすれば、あえて否定しないだけでも「ワカレ!」を使ったことに成ってしまうんだと思うわけです。
とは言え、「ワカルナ!」と言うのもオカシナことに成りますし、「ワカンナクテモいいんですよ~」というのも、決して自分の作品に対して真面目な態度とは言えないと思うわけです。
「芸術作品」と言うのは、やはり「一発でワカル」と言うのを目指してしまうわけですが、「抽象」の場合、それが難しいということですね。
もちろん、先にも述べたように、ナニカシラは伝わると思います。
ある意味では、「抽象」の方がインパクトがある場合もあるでしょう。
でも、それが、作者の意図するところと、大きく”ズレ”てしまっているとすれば、それは、『「一発でワカル」に当たるのか?』ということに成るわけです。
結果的に「抽象芸術」は、作者の「オリジナル言語」で表現しようとすれば、見る側にとっては、「ワカリニクイモノ」に成り、「ワカリヤスイモノ」を目指せば、「言語」の中では、もっとも単純な「叫び」とか「溜息」とか「泣き、笑い」のような、インパクトはあるが、意味性の希薄なものしか使えないというような、ジレンマに陥っているように思います。
※「叫び」や「泣き。笑い」などは、人間の長い進化の過程から生まれてきたもの
ですから、言葉以上の「意味性」を持っている場合もありますが、それと比べる
と「抽象芸術」の歴史はあまりに短すぎると思いますね。
だから、「強烈に伝わる」ではなく「強烈なだけ」に成ってしまうんだと思います。
また、「叫び」や「泣き笑い」などが「強烈な意味」を伝えられるのは、実は、「共
通言語としての言葉」との併用と言う前提があるからで、「叫び=オリジナル言
語」だけで伝えられるものというのは、限られてしまうんじゃないでしょうか?
表現の幅を広げるために「抽象化」したはずなのに、かえって、キュークツな部分が出てきてしまったわけですね。
このような状況の中で、「抽象表現」は、それが「ワカル人」と「ワカラナイ人」に分離してしまっていて、基本的に、「芸術に対して特別な知識や興味がある人のモノ」と言う感じに成ってしまっているように思うわけです。
(と言うよりも、「抽象がワカル」と言う事によって、「芸術に知識や興味がある人」だと思われたりします)
「抽象芸術」に対して、理解があるとされている国や地域では、「ワカル人」の比率が「ワカラナイ人」と比べて高く成るということはあるでしょうが、「抽象芸術」が「知識や興味のある人のモノ」になってしまっているということについては、ほとんど同じことが言えるんじゃないでしょうか?
つまり、そういう国では「ワカレ!」を受け入れる人が多いというだけの違いだと思いますね。
※「抽象がワカル人」と言うのは、何らかの形で、「ワカレ!」を受け入れた人だと思います。
理解力や、感性の問題ではなく、どちらかと言えば、「柔軟性」の問題でしょうね。
「柔軟性」と言うとイイモノのように聞こえますが、実を言えば「妥協的」であるということでも
あるわけで、それを「芸術的な立場」とは言えないと思います。
「ワカラナイからワカラナイ」と言っただけで、また、そういう姿勢をチョット頑なに続けたと言
うだけで、「芸術がワカラナイ人」にされてしまうということが「芸術」を閉鎖的にしていると思
います。
でも、私の場合は、芸術で伝えたいモノがあるとすれば、それを「ワカラナイ人」の側に伝えたいんですね。
つまり、「特別な知識や興味を持っていない人たち」ってことですね。
あくまで、「”特別な”知識や興味が無い人」です。
全く興味がない人に伝えようとまでは思わないんですが、「芸術」よりも「自分の人生」や「家族」や「友人」に興味がある人たちにこそ、伝えたいと思ってしまうわけですね。
要するに「人間」を重視している人に伝えたいんですね。
そういう人にこそ伝えないと意味を成さないようなこと、それが、私が芸術で伝えたいことなわけです。
つまり、私が伝えたいのは「人間の中身」と言うことです。
で、それが「具象表現」では伝えにくいモノだということなんですよね。
それで、「抽象表現」を使うわけですが、そこで、前述のジレンマが出てきます。
「伝えたい相手には伝わらない」ということですね。
で、取り敢えず「ワカルモノ」ではなく、「ワカリタイと思うモノ」を目指しているわけです。
ワカラナイけど、ミョウに気になるから、「ワカリタク成るモノ」ですね。
特に興味がない人でも、「ワカリタイ」と思ったら、その時点で、もう興味を持っているんだと思いますから、ナニカ伝わるようになるんじゃないかと思うんですねぇ。
そこで、「オリジナル言語」を使って表現するんだとすれば、やはり、相手に聞き取りやすいように、ハッキリ、ゆっくり、発音するのがいいんじゃないかなと。
そうすれば、ワカラナイ言葉でも、なんとかして聞き取ろうとする人も居るんじゃないか?ということですね。
それで、出来るだけ「クッキリと描く」ということをいつも考えています。
「一切ボカサナイ」ということではないですが、クッキリ描けるところは、出来るだけクッキリと、『浮き立つくらいにクッキリと!!』描くことで、まぁ、ナニカ言いたいことの片鱗くらいのモノは伝わるんじゃないのかなと。
そういう風に考えているわけです。
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