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「サブリミナルの時代」



広告宣伝などの分野でよく使われる言葉で「サブリミナル効果」と言うのがありますが、広告宣伝に限ったことではなく、あらゆる意味で、現代は「サブリミナルの時代」なんじゃないかと思うのです。


「サブリミナル」は「潜在意識に働きかける」と言うような意味らしいですけど、要するに、人が意識していないところに情報を刷り込んでしまおうというような、そういう、やや不誠実な手法と言うことなんだと思います。


狭義の意味で言うところの「サブリミナル手法」がどれほど有効であるのかは、どうやら、いまひとつ定かではないらしいですけど、少なくとも、「マスコミ」を通じて流されている情報が、誰かの意図による場合でも、そうでない場合でも、かなりの「サブリミナル的な効果」を生み出してしまっていることは、ほぼ間違いないことだと思います。

現代社会と言うのは、「マスコミ」の影響に限らず、「教育」にしても「政治・経済」にしても、あらゆる意味で、いろいろなものが「大規模化」していて、「数の力」による「集団的な意識」が、ありとあらゆることに強く働きかけているわけです。

つまり、そういう「集団的な意識」と言うのが、非常に「潜在化」しやすいんだと思います。


例えば「テレビ・コマーシャル」で、有名なタレントがある商品を持ってニッコリ笑っているだけで、『この商品はいい商品に違いない』ということが「潜在意識」に刷り込まれてしまうわけですね。

ここで言う、「有名なタレント」の「有名な」=「みんなが知っている」の部分が、「数の力」=「集団的」と言うことなんだと思います。


ほとんどの人が、「コマーシャル」で誰が宣伝していようが、その商品の内容とは直接関係がないということはわかっていても、それは、「表面的な意識」においてであって、それが「潜在的な意識」になると、『有名な人が勧めているんだから、きっとイイに違いない』に成ってしまうわけです。
(実際には、とくに勧めてすらいないことも多いのにね)


それから、「教育」において、たとえば「国語」の授業で、「夏目漱石」が教科書に載っているのを見ていると、「夏目漱石」の書いた本が好きな人でも嫌いな人でも、それどころか一冊も読んだことがない人でも、「夏目漱石」はいい作家であるということには、ほぼ逆らえなくなってしまうというわけです。


こういったことが、「美術」の授業でも「音楽」の授業でも起きているわけですね。


これらの例は、「意識の潜在化」がまだ見えやすいですが、とくに直接的な「利益」とか「目的」と言ったものが無いようなケースだと、どこが「サブリミナル的」に働いたところで、それが、どんな「効果」を生み出したのかは、もう、ほとんど見えなくなってしまうことが多いので、より一層深く「潜在化」していくわけです。


現代は「情報の時代」ですから、こういう「集団的な情報」が非常にたくさんあるわけです。
というよりも、現在「情報」として通用しているのは、こういう「集団的な情報」だけだと言ってもいいかもしれません。

早い話が、どんなに理に適ったことでも「一人の人が言ったこと」だと、「情報」としてはほとんど意味を持たないし、それとは逆に、かなりオカシナことでも「集団的な情報」であれば、ほぼ間違いなく通用してしまいます。


『いやいや、権威のある一人の人が言ったことなら、「情報」として成り立っているだろう』ということはあるわけですが、それは「権威のある」=「みんなが認める」なわけですから、一人でもすでに「集団的な情報」に成っているわけです。


そして、その「集団的な情報」が「サブリミナル効果」を生み出してしまうわけですね。


例えば、人気のある芸能人が着ている服はたいてい流行りますし、「芸能人おススメの本」もベストセラーに成ることが多いです。
内容とは、ほとんど関係ありません。

つまり、「コマーシャル」じゃないのに「コマーシャル」に成ってしまうわけですね。
(こういうのを「一種のコマーシャル」としてやっている場合もあるんでしょうけどね)


そう考えると、現代社会自体が「巨大な広告媒体」であるとも言えるわけで、現在の社会の中で起きていることと言うのは、すべて「広告・宣伝」であるともいえるし、そういう「広告・宣伝」によって「潜在化された方向性」に従わされた結果であるとも言えるわけです。

しかも、その「方向性」は「個人の意思」ではなく、「無意識」の状態で「刷り込まれて「潜在化した意識」ですから、ほとんど「個人の意識」を反映していないわけで、「有名人がナンの気なしに言ったこと」や、「大した意味もなくテレビに流された映像」なんかが、「社会の方向」を左右していたりするということです。

ただ、それが見えにくいために、『そこまでじゃないだろう?』と思われているということでしょうね。


この「サブリミナルの時代」で何が悪いのかと言えば、このところ、明らかに「個人の意思」が無力化して来ていて、ほとんど「自分の意思を持っていない」と言うような人が増えていることです。


実際、二十数年ほど前に「ケイタイ」や「インター・ネット」が普及しだしたころには、「ケイタイ」や「ネット」に必要性を感じない人もそれなりにいたようですし、ほとんどの人が「ケイタイ」や「ネット」を利用するようになるまでには、それなりの時間がかかったような記憶がありますが、この数年間で普及した「スマートフォン」などのタブレット端末の時点では、『スマホなんてゼンゼンいらなーい、必要ないし』と言っていた人が、翌週には『やっぱり、ラインやりたいからぁ』と言って、すでに慣れた手つきでスマホをいじっているというようなことが、確かにあったような気がします。

どう考えても、「自分の意思」でやっていることとは思えません。


『スマホぐらい持っていないと、時代に置いて行かれるよ!』という「集団的な情報」が、どこかで刷り込まれているんだと思います。


「スマホ」ならまだいいんでしょうけど、こういう「個人の意思の無力化」はあらゆることに反映していて、かなり重要なことでも「自分の意思」で決めていないという人が急激に増えているような気もします。


『誰だかよく知りもしないような人が、ナンの気なしに言ったことなんかで、そんな重要なこと決めちゃっていいんですか?』と、まぁ、そんな風な気がしてしまうわけですね。


『いや、別に自分が「ケイタイ」とか「スマホ」とか持ってないから言ってるわけじゃないですよ』
『あー、ビンボーだから買えないんだぁ、というのもぜんぜん見当違いです!』
『それとは関係ない話としてなら、まぁ、ビンボーではあります』



『オーホッホッホッ!ビンボーが何だっていうの!?』

『あたくし、そんなことはカエルのションベンほども気にしていなくてヨーホッホ!オスカル!!』

「えっ?オスカル??・・・・・・・カエル?」

『・・・・・・・・・・』

「・・・・・・・・・・アンタはだれ?」

みたいな。


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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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