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現在考えられる「神と芸術」の関係」(つづき)



前の記事からの続きに成ります。


さて、「芸術」も「宗教」も、19世紀~20世紀にかけての「人間の意識の変化」によって、「すべて」というモノを目指すようになってきたんじゃないか?ということです。

こういう傾向はけっこう前から続いているんだと思いますけど、「すべて」は、そう簡単に到達したり現したりできないので、なかなかそこから卒業できないというところなんでしょう。


ただ、ここで一つ問題があって、「宗教」において、「すべて」を「真理」であるとしてしまうと、結果的に「宗教」が「無意味化」するということがあるわけです。

つまり、「宗教」以前の「単なる畏怖心」のようなものに戻ってしまうような気がするわけですね。


「宗教」が今のような形になる前にも、「自然」や「世界」に対する「畏怖心=オソレ・オノノキ」のようなものはあったでしょうし、それは、「人間」だけでなく「動物たち」の中にもあるんだと思います。

そして、そこから「神」のような「絶対的なモノ」を想定したことで、「宗教」は「宗教」たり得たように思いますし、それこそが、「宗教の文化的側面」を形成していた要素だと思うわけです。


つまり、「畏怖心」だけだと、根源的な感情ではあっても、素朴すぎるために「発展性」が無く、「文化」とはなりにくいんじゃないかと思います。

「すべて」も、それと同じようにあまりにも「根源的」であるために、「文化」にも「宗教」にも成らないんじゃないかと思うわけですね。


というよりも、「宗教」が「すべて」を追究すると、結果的には「宗教」としての意味を失ってしまうんじゃないかと思います。
言い換えれば、「すべて」は、「追究する必要」も、「信仰する必要」も、「真理と呼ぶ必要」もないということです。


「すべて」は何と言っても「すべて」ですから、なにも要求することなく「すべて」として、あらゆるものを含んでしまっていますから、ナニカを探求する「必要」も「意味」も全く無く成ってしまうわけです。

そうなると、もう、それを「宗教」と呼ぶことにも意味がなくなってしまいますし、そこに「信仰心」を持ち出してくる理由も何一つ無く成ってしまうわけで、「宗教」において「すべて」を「真理」としてしまうと、『へぇ~、そうなんだぁ~』と言うだけのことに成ってしまうんじゃないでしょうか?

もはや、それを「信仰」と呼ぶことにも意味は無いかもしれません。


つまり、それは「オソレ・オノノキ」から数千年を経て、それ以前の状態に戻ってしまったということに成ってしまうわけです。

それがワルイということではありませんが、それは、やはり、「後退」であるというような気がします。


これは、同じようなことが、「芸術」にも言えていて、「芸術」においてもやはり、「すべて=完全な普遍性」を現そうとして、それを極限的に追及していってしまうと、そこには「無意味」と言う「芸術の残骸」が残るだけなんじゃないかと思うわけです。


これは「芸術の20世紀」が証明して見せたことの一つだと思いますが、その「芸術の20世紀」という実験を行った本人たち(巨匠と言われる人たち)が、その「無意味」と言う「実験結果」を発表することなく、放置してしまったために、その後の「芸術」が「混迷の渦」から逃れられなくなってしまったんだと思うわけです。


少なくとも、私は、「20世紀」の「芸術」や「宗教」において、自分の「芸術的探究」や「宗教的研鑽」が、結果的に『無意味であった』と言っている人を知りませんし、それどころか、その点に疑問をはっきりと提示してから死んでいった人すら知りません。
(そういう人も居るのかもしれませんが、それをハッキリと言い残した人は居ないと思います)

今さら、それをどうこう言うつもりはありませんが、それも、やはり「後退」であるとは言わざるを得ないわけなのです。


そして、なんといっても、「今」ですね。

いま、「宗教」においては、私は「人間が宗教を卒業する時」が来ていると思うわけですが、「芸術」においても、「すべてを現すこと」は不可能であるということがわかって来ていると思うのです。

そうなると、やはり、ある程度「限定されたモノ」を現していくしかないということですね。

つまり、「宗教」においても、「芸術」においても、「絶対」や「究極」を追究することを諦めなければならなくなってきたということだと思うわけです。


「宗教」においては、もともと「絶対」を追究すること自体に「宗教の本質」があると思いますので、そこで「宗教の時代」は終わってしまったんだと思うわけです。


「芸術」においても、やはり「究極」は、昔からのテーマであったとは思いますが、そこを少し妥協したとしても、まだ「芸術の役割」は残っているような気がしますので、それで、「芸術の時代」は継続できるような気がしているというわけです。


また、これはある意味で「妥協」ではあるかもしれませんが、「後退」とは言えないと思うのです。
つまり、「前進」するための「妥協」ということですね。


もちろん、今でも「究極的なすべて」を現せれば一番いいんでしょうが、それは不可能であろうということで、「妥協」するわけです。でも、もともと「すべて」が絶対的な目的なわけではないわけですから、そこを「妥協」したとしても、少しでも「真実」に近づければ、少しはいいんじゃないのかなと。

そんなところでしょうか?


そんな中で、今、「芸術」が追求していくことと言えば、「すべて」を現すことが不可能であるという現実を受け入れたうえで、さらに、それを現そうとし続けることと、そういうことに対する純粋で懸命な姿勢を示すことなんじゃないのかなと。


それは「現在の芸術」が示すことが出来る「究極的な姿勢」であると言ってもいいんじゃないのかなと。


そんな風に思っているわけです。




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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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