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「感動」とは「慣れないもの」ではないか?



「芸術」をやっている人は、多かれ少なかれ「感動」を生み出したいと思ているんだと思います。

でも、この「感動」って、けっこう定義し辛いモノなんじゃないでしょうか?


どうしても、「人によって感動するポイントが違う」と言うことがあるので、定義するのが難しいんだと思います。


ですから、あくまで一つの話としてということに成るわけですけど、「感動」っていうのは、「慣れないもの」じゃないかと思うわけです。

つまり、「何度見ても初めて見たときと同じような強い印象があるもの」と言うことですね。
そう言うものこそ、本当の「感動」なんじゃないかと思うわけです。


例えばの話、何かを見たり聞いたりしたときに、『おおぉっ!いいんじゃないか!?』と思ったとしても、次に見たときには、『そうでもないか?』に成っていたとしたら、それは、やはり「感動」とまでは言えないものだったということなんだと思うわけです。


また、それよりは少し良かったとしても、何回か見たらやや飽きて来たとか、最初に見たときほどではなくなってしまったとか、そういうのも含めて、やっぱり「感動」とは少し違う性質のものなんじゃないかと思うわけですね。


逆に、本当に心の底から「感動」したようなものというのは、何度見ても、また、何年たっても色褪せるようなことは無くて、ほとんど、初めて出会った時と同じような「心の状態」が再現されるような気がします。

そう言うものこそが「感動」と言うにふさわしい気がするわけですね。


そして、当然のこととして、そういう「本物の感動」を創り出せたら嬉しいなと思うわけです。


こんな風に言うと、読んだ人は、『お前みたいな者に、そんなタイソウな作品が描けるわけないだろう!思い上がるんじゃない!!』
と思われるでしょうが、これは、必ずしも作品の出来・不出来と言うことではなく、「その感動」が「本物」かどうかということを言っているわけなのです。


つまり、「小さくても本物の感動」と言うのもあるんじゃないかと言うことですね。


「名作」と言われるような作品は「大きくて、尚且つ、本物の感動」を生み出せるのかも知れませんが、そういう大それたものを狙おうということではなくて、「小さい感動」であっても、時間とともに色褪せてしまわないような、そういう意味での「本物の感動」を目指していきたいなと思っているわけです。


ただ、これは、初めから「小さい感動」lを狙って行こうということでもありません。

『どうせ「大きい感動」なんて無理に決まってるんだから、「小さめ」を狙って行こう』というような「安全路線」ではないです。


つまり、目指すところを「感動の大きさ」ではなく「本物の感動」にしようと言うことですね。
もちろん、「大きくて本物」なら一番いいに決まってますよね。
でも、それは”結果的に”と言うことであって、狙うべきものではないような気がするということですね。


それから、一人の人間が一所懸命になってやったことと言うのは、人の心を動かす力があるような気がするわけです。
(そうであってほしいという希望的観測も含めてですけど)


だから、そういう「全力投球の作品」と言うのは、作品の出来栄えとは別のところで、たとえ小さくても「本物の感動」を、生み出せるんじゃないのかなと。


そんな風に、本当に心の底から思っているわけです。




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