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「宗教」の「行き止まり」



前の記事に続いて、これもまた「宗教」についての話です。

信仰をお持ちの方には納得いかないことに成ってしまうでしょうが、真面目に考えていっていますので、そこのところはお許しください。


さて、いきなりですが、私は「宗教」には「行き止まり」があると思うわけです。
つまり、あるところで必ず”にっちもさっちもいかない”状態に成ると思うんですね。


要するに、人間には「神様」が把握できないという問題があるわけです。
だから、「信じる」しかなくなってしまうというわけです。

そこが「宗教の行き止まり」だと、私は思うということなのです。


これは「神様」を、ほかの言葉に置き換えたとしても同じで、「人間」は「人間のサイズを超えたモノ」は把握できないわけです。
しかし、「信仰」の対象に成るようなものは、必ず「人間のサイズを上回るモノ」ですから、絶対に把握することは出来ないわけです。


そこで、「信じる」しか無く成るわけですが、「把握できないモノを信じる」ということは、結果的に「盲信」を免れるすべがないということに成ります。
「盲信」を免れるには、そこに「疑い」を持ち込むしかないわけで、そうなると、「純粋な信仰」が崩れてしまいます。

そこで「行き止まり」です。


その「行き止まり」を突き抜けるには「盲信」を恐れずに「信仰」に突き進むしかないわけです。
つまり、やや極端な言い方をすれば、『全ての宗教は盲信である』ということです。

でも、それが絶対に悪いということではありません。
「盲信的なモノ」の中にも「悪くないモノ」だってありますから。


たとえば、「親子の愛情」なんかも、かなり「盲信的」な場合があります。

動物の行動で「インプリンティング」と言うのがありますが(生まれて初めて見た「動くもの」を親だと思ってしまうというアレですね)、あれなんかも、完全に「盲信」ですが、それが本当の親であれば何の問題もないことですから、決して悪いものではないのでしょう。

これは、人間の親子間の愛情についても同じようなことが言えるんじゃないでしょうか?
「その親」がマトモでありさえすればいいわけですね。
(ただ、「その親」がマトモじゃなかったときはけっこう悲惨なことに成るわけですけど)


「宗教」だって同じことで、「その宗教」がマトモであればいいわけですが、その「マトモならばいいだろう」という基準自体が、「宗教」としては「行き止まり」なんじゃないかと思います。


それから、もう一つ言えることは、現代の生活の中で考えた場合、「宗教」で救われている人は、もしも、「宗教」が無かったとしても大丈夫な人なんじゃないかと思いますが、「宗教」で疲れ果ててしまう人というのは、「マトモじゃない宗教」にハマらなければ、もう少しいい人生を送って居られた人なんじゃないか?と思うんですね。

もちろん、そこから立ち直る過程で、多くのことを学ぶ人も居らっしゃるでしょうが、そうでない人が居るということも否定はできないと思うわけです。


これは、「薬物依存」や「ギャンブル依存」や「悲惨な結婚生活」なんかにも同じことが言えますが、そこから学んで結果的にプラスに転じることが出来る人も居ますが、それが出来ない人も居ます。

でも、そういうことと「薬物やDVなどを含んだ悲惨な生活」を無くしていった方がイイだろうということとは別のことだと思います。


「宗教」の場合、そこのところが、昔と今では違うような気がするんですね。
つまり、「宗教で救われる人」と「宗教で疲れ果ててしまう人」の比率が逆転しているように思うわけです。
(「なんとなく宗教をやっている人」ではなくて、「強い思いで信仰している人」に限っての話です)


要するに、現時点で「宗教」を「信仰すること」は、一種のギャンブルだということです。

だから、「宗教」には「行き止まり」があって、そこから先は「盲信」覚悟でのギャンブルであるということをわかったうえで、そちらに身を任せるのか?という選択基準があった方がイイんじゃないかと思うわけです。

でないと、「宗教で疲れ果ててしまう人」が後を絶たないような気がします。


もしかしたら、いま、「神様」が『私を捨てなさい』と言っているのかもしれませんよ。
いや、こういうのが「神の名を語ること」になってしまうわけですね。


「神様が言っていること」というよりも、「人間が思うこと」として、おそらくは原始時代から持ち続けてきた「習慣」である「信仰」を、片手ではスマホを操作しながら、まだ、これから先も続けていくのか?ということだと思います。


「宗教」や「信仰」を否定するということではなくて、そういう「機能」を「人間の中」に見つけ出せないのか?ということですね。
もし、それができたら「神様」も褒めてくれるんじゃないですか?

おっと、また「神の名を語ること」ですね。


言い直すと、『それができたら「人間」は自分で「自分」を褒めてやってもいいんじゃないですか?』

そういう風に思うわけです。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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