「神の言葉」・「悪魔の言葉」・「人間の言葉」
宗教的な意味で言うところの「神の言葉」とは、神が語ったとされている言葉や、神の代弁者として認められた人が語った言葉と言うことに成るわけです。
そして、その「神の言葉」に反するような「言葉」を「悪魔の言葉」とすることが多いと思います。
要するに、「神の教えに背く」ということですね。
ただ、これらをよく考えてみると、すべて人間が語っている言葉であるわけです。
どんな宗教においても、同じだと思うんですが、「神様が実際に人前に姿を現す」ということは無いと思うのです。
(預言者や現人神などは、本当の神様ではないと言う前提でですけどね)
だから、当然「神の言葉」も人間が直接聞くことは出来ないんだと思います。
つまり、「神様」と言うのは「無限にして絶対なモノ」ということですから、人の前に現れてしまうと「その現れた姿」に限定されてしまうわけで、「現れること」が出来ないということだと思います。
これは、「神の言葉」でも同じことで、具体的な「言葉」にして現してしまうと、その「言葉の範囲」に限定されてしまうわけですから、「無限にして絶対」ではなくなってしまうわけです。
つまり、それはもう「神の言葉」ではないということですね。
でも、そうなると、本当の「神の言葉」というものは存在しないということに成ってしまうわけです。
そもそも、「言葉」と言うモノ自体が「人間レベル」のものなわけで、常に「何らかの限定」を含んだものなんだと思いますから、「神の言葉」と言ってしまうと、「神の無限性」が崩れてしまうわけですね。
ほとんどの「宗教」においては、そこのところを、『神様が人間にもわかるように、「人間の言葉」で神の無限性を説明しているのだ』という風に解説していると思います。
そして、それを説明するために「神によって使わされた」とされるのが「その宗教の教祖(始祖)」である場合が多いと思います。
ただ、その「教祖様」は、やはり「人間」なわけです。
そして、「人間」は、悲しいかな「無限」ではないわけです。
「教祖様」たちは、たいていの場合「コテコテに有限」です。
(『実は私こそが無限なのです』と言い始めると、だいぶアブナイですけど)
この点に関しては、新興宗教やカルト宗教の「教祖様」でも、現在、世界的な宗教に成っているような宗教の「始祖様」でも、全く変わりがないはずです。
確かに、過去において「宗教」が担ってきた役割があったことは間違いないことだと思いますし、それが今でも続いていることも否定はしませんが、それを今後も続けていくのか?ということに成ると、私は、もうそろそろ「人間の言葉」に耳を傾ける時期なんじゃないのかなと思ってしまうわけなのです。
そして、それは「人間の言葉」を「人間が語る時期」でもあるわけです。
これまでは、なんだかんだ言っても、結局は「神の名を語っていた」ようなところがあったと思うわけです。
いや、必ずしも悪い意味ではなく、それを信じて言ったり語ったりしたことでしょうから、それは、その時代において「立派なこと」だったのかも知れません。
しかし、現時点で、それと同じことを繰り返すことは、やはり、「神の名を語ること」になってしまうような気がします。
現時点での「信仰」には常に「疑い」が入り込んでいると思うのです。
(一人一人の人間の中にではなく、現代という時代の中に潜在している「疑い」ですね)
だから、そこでの「信仰」とは、常に「盲信」に変化していく可能性を秘めていますし、「布教」とは常に「押しつけ」に変換されてしまうわけです。
つまり、「神への疑いを含んだ時代」においては、「神の言葉」を伝えることが、必ず「神の名を語ること」になってしまうわけです。
そんな中で、「人間」は「人間の言葉」を「神の言葉」としてしまうのではなく、「人間の言葉」として語っていく必要が出てきているんじゃないでしょうか?
当然、「神様」の持っている(かつて持っていた)「絶対性」には及びもつかないでしょうし、ほとんどの「人間の言葉」には「間違い」が含まれているでしょう。
そして、その「間違い」の責任はすべて「人間」に帰って来るわけです。
それを語ったのも「人間」だし、それを聞き入れたのも「人間」ですから。
そんな状況の中で、「人間の言葉」を懸命に語り、その懸命に語られた言葉に、また懸命に成って耳を傾け続けることは、決して容易なことではないかも知れませんが、そういう方向こそが、現在「人間」に指し示されている方向だと思います。
たとえば、「スピリチュアル」と言う信仰(なのかな?)がありますが、「スピリチュアル」を信じている人たちが、それを「宗教」だと思っているのかどうかはわかりませんけど、やはり「何らかの絶対」を設定したものは「信仰」だと思いますし、その「信仰」を「何らかの形で語ること」は「宗教」に当たると思います。
「スピリチュアル」においては、「愛」を「絶対原理」とする場合があるようですが、この考え方自体はとても好きな考え方ですし、そういうことを言っている人も好感の持てるような人である場合が多いので、ケチをつけてもワルイかな?とは思うんですが、
『「愛」だけじゃいけないんですか?』と思ってしまうわけなのです。
つまり、『なぜ「愛」を「絶対原理」としなければならないのか?』ということですね。
『どうして「信仰」にしてしまうのかな?』と思ってしまうわけですね。
言い方を変えれば、『「人間の愛」では不足ですか?』ということです。
もっと言えば、『「愛」の裏側に「憎」があってはダメでしょうか?』ということです。
それが、「完璧で汚れのない愛」でなければダメなんでしょうか?
そんなことないんじゃないかと思うわけです。
「不完璧」なモノでもいいんじゃないかと思うんですね。
私は、「真理」と言うモノ自体が「変容し続けるもの」なんじゃないかと思うのです。
つまり、『全てのモノがネジレながら反転し続けている』というのがこの世の中の実体だと思うわけです。
だから、「不合理」と「合理」が混在していられるわけで、説明できないことがあるのも当然のことですし、「不合理」はネジレてどこかで「合理」とつながっているから、両立していられるわけです。
※『それじゃあ、「真理」とは言わないだろう!』と言われてしまうかもしれませんが、
そういう「変容する姿」が全体としてつながっていて「整合性」をもっていることを
「真理」と考えることは可能だと思います。
というか、そうでも考えないと、こんなに矛盾した世界を説明することなんてできる
わけないと思いますね。
「不変にして永遠であること」を「絶対」とか「普遍」としてしまうと、その辺のところを、説明する必要が出てきますけど、「真理」を「不変にして永遠であること」ではなく「変容し続けること」とすれば、そこのところを説明する必要は無く成ります。
「真理」も「普通のモノの一つ」に成るということです。
ただ、「真理の変容」はたぶん「人間のサイズ」を超えているので、人間には把握きないと思いますけどね。
たとえば、「宇宙の果て」に向かって行くことは、「宇宙の中心」に向かうことでもあるわけで、当然「その中心」こそが「果て」でもあるわけですから、「果て」に到達することは不可能でもありますが、いつどこにいてもそこが「果て」でもあるし、「中心」でもあるというわけです。
この説明で分かるように、まったく意味がありません。
要するに、『ナニを言っているのかわからんのだよ、キミ!』という感じですね。
それを、「神の名のもと」に言ってはいけないような気がするわけです。
「愛」と言う「言葉」は「人間の愛」を想定して語られるべきだと思いますし、「神の愛」や「絶対原理としての愛」は「愛」と言う「言葉」では語りきれないはずです。
これは「愛」を「神」に置き換えても、また、他のどんな「言葉」に置き替えても言えることだと思います。
すべての「言葉」は「限定」を含んでいますし、如何なるものも「言葉」に置き換えれば「その言葉の範囲」に限定されてしまいますから、「絶対」を「言葉」にして伝えることは不可能なハズです。
それをやろうとすれば、「神の名を語って伝えること」になってしまうと思うわけですね。
こんなことを書くと、信仰心の厚い方からは『悪魔の言葉だ!』と言われてしまいそうですけどね。
でも、私は「コテコテ人間」なので、「人間の言葉」として語っております。
「コテコテ人間の言葉」ですね。
『まぁ、いいんじゃないの?』
そんな風に思っております。
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