「現実」の中に「真実」は無い・・・そこまではいいとして
「現実」と言うと、「真実」と比べて、やや表面的というか、どことなく浅いというか、なんとなく単純というか、要するに、人間にも容易に理解できる範囲のものが「現実」だなと、そんな感じがするわけです。
「真実」の方は、人間には到底理解できないものと言う感じですね。
「現実」も「真実」の一種ではあるんでしょうが、その中で、人間にとってわかりやすいものを「現実」と言っているような気もします。
そして、そういう「現実」を除いた「狭義の真実」が一般に「真実」と言われているんじゃないかと思います。
そういう前提で言うと、
『「現実」の中に「真実」はない』ということに成るわけです。
この話には、『同意』の方も結構いらっしゃるんじゃないかと思います。
そこで、『そこまではいいとして~』という話です。
どうして、「真実」はこんなに見えにくいんでしょうか?
なぜ、時として「現実」が「真実」を覆い隠してしまうように感じるのでしょうか?
また、それ以前に、人間にとって「真実」はそうまでして必要なモノなのでしょうか?
※まぁ、それ以前に『「現実」だけで十分だろ!』という人も居らっしゃるでしょうから、
そういう人から見れば、意味のない話に見えるでしょうが、不本意ながら、ここで
は、そこのところは飛ばします。
面白くなさそうなので。
おそらく、「真実」が理解しにくいのは、それが「人間のサイズ」を上回っているからだと思うわけです。
つまり、「人間のサイズ」以内のモノが「現実」で、それ以上が「真実」ということですね。
その「人間のサイズ」がどのくらいかと言えば、たぶん、「形あるもの」や「限られた時間内のもの」というようなことなんじゃないかと思います。
だから、「形のないもの」や「時間を超越したサイクルを持つもの」は把握できなく成るんでしょうね。
そして、たいてい、そう言うものが「真実」なんだと思います。
「真実」と言うと「普遍的」で「永遠に不変」であると考えてしまいますが、実を言うと、それが「人間サイズの考え」なんだと思います。
「形のないものの世界」や「時間を超越した世界」では、「不変」や「永遠」は意味を持たないような気がしますので、「普遍性」や「真実性」はそういったこととは無関係に存在するとも言えるわけです。
つまり、「真実」も「不定形」であって、変容し続けているということなんじゃないかと思うわけですね。
ただ、その「変容」が「人間のサイズ」を超えているわけです。
だから、把握することは出来ません。
おそらく、人間が理解できるのは、「それが人間に把握できるサイズを超えているということ」ぐらいまでじゃないでしょうか?
そして、その絶対に把握できないようなものである「真実」を、把握できないと知りながら探求し続けることを、「智」と呼ぶんじゃないのかなと。
そんな風に思うわけです。
『・・・・・・だからナニ!?』
- 関連記事
-
-
「著作権」は守ってくれない! 2014/09/06
-
「芸術作品」=「作者そのもの」ということについて 2016/10/19
-
「創作や表現の本質」は「具象」にあり、「芸術の本質」は「抽象」にある 2016/06/21
-
「芸術」や「エンターテイメント」を「一般人」の手に取り戻そう! 2015/11/03
-
芸術が社会現象の発端であると考える理由 2014/08/06
-
「感動」から抜け出すこと 2014/12/20
-
「本能」に近く、「欲望」から遠い 2015/03/20
-
「芸術」の競争 2014/05/06
-
『芸術とは?』と言う問い 2014/11/26
-
「時代の潮流に乗ったもの」はすべて「亜流」であるということ 2018/09/09
-
「美しいこと」と「醜いこと」 2017/03/21
-
「機能美」と「意匠美」 2015/07/14
-
「いい絵」の延長上に「名画」があるわけではない 2018/05/30
-
「芸術を好みで判断すること」について 2018/12/08
-
[20世紀以前の美術」と「20世紀以降の美術」 2015/12/01
-