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2.各現場で実行できそうなこと

もちろん、すべては観念の中で≪芸術の20世紀≫を消し去ることから始まるわけだが、

これは個々の人たちの頭の中で行ってもらう作業なので、説明は不要かと思われる。

慣れないうちはどうしても「○○のような作風」などと

20世紀の巨匠の名を頭に浮かべてしまったりすると思うが、そこは慣れの問題だろう。


ここでは、観念上のこと以外(つまり具体的なこと)で、できそうなことを挙げておきたい。

これも随時追加(添削)することになるだろう。


そして、もしこの「宣言」に賛同していただける方がおられるのであれば、これらのことを各人がそれぞれの

お立場において、実践または広報していただきたい。
(広範囲にと言うよりはご自分の周りの人の意識に働きかけるという意味で)


それから、わたしが言うのはおこがましいのだが、

これらの活動における方法論に関しては各人の自由な判断にお任せいたしたい。

わたしとしてはどんなに小さな単位での活動であろうと必ずや一定の成果があるものと思っているので、

どのようなやり方でも、良いと思うものがあれば積極的に試してみていただきたい。

きっとそれがこの「宣言」にとって最良の結果の一つをもたらしてくれるに違いないだろう。

ただ、各人の中での「意識改革」が常に最重要な課題であるということだけは言っておくべきなのかもしれない。


これについてもう少し付け加えるならば、現在形の考え方では時代の流れを変えるには「メディアによる

広範囲な宣伝力」を活用し、一気に「時代の中心」に踊り出て、「時代の先端」を牽引し、一大「ムーブメントを

巻き起こす」ことが効率的なのだろうが、これらの大容量の一方向への情報の流れを作り出すやり方こそが、

いま私が「喪失」しようとしている「20世紀」を象徴するものであり、また、「20世紀の誤謬」を

創り出した一因でもある。


従って、私はこれらのものを特に重視しようとは思わないし、逆にとくに拒絶しようとも思わない
(強い拒絶は注目に等しいから)。

私が重視しているのは「人の意識」である。

一人の「人の意識」が変わることこそが、いま私が考えている最大の変革であり、

また、その最良の姿である。

現時点での私の考えでは、一人の「人の意識」が変わることは

時代の「すべての意識」が変わることに等しい価値があり、

さらに言うなら、一人の「人の意識」が変わった時点で

「時代が変わった」といってもいいほどなのである。


つまり「時代」というものは常に流れていて、

言ってみれば止まることなくいつも変革し続けているわけだから、

一人目が変わった時が時代の変革の最先端の瞬間ということであり、

その後変わって行く時代の最初の点なのである。

確かに、その点が増えていって時代を埋め尽くすような勢いになれば

「時代が変わった」と言われるのであろうが、

実は、それは単に「数量的」なことであって、私が問題にしているのは「質的」なことであるから、

あまり関係があるとは思わないのである。

あくまで一人目の人にとっては自分が変わった瞬間が「変革の時」であって、

その時から彼の中では「時代が変わって」いるのである。


当然それは何人目であっても同じことであり、一人の変革には一人分の価値があって、

その「一人分の価値」は時代の全てを含む「時代の価値」に等しいのである。

そしてまた、この一人の「人の意識」の変革が「一時の気まぐれ」や「単なる勘違い」でもない限り、
(そういうものを「変革」などとは言わないと思うが)

きっと、少なからず時代はその「人の意識」によって動かされてゆくことに成るのである。


それはおそらく「数量的」な力によってではなく

「質的」な力によって動かされることに成ると、私は思うのである。

従って、各人においてはこの「宣言」を多くの人に広めることではなく、

自身の中で如何なる「質」をもって解釈し、

また自己に取り込むかということに最大限のエネルギーを注いでもらいたい。


少し話がそれてしまったが、以下に具体的な行動について記しておく。


①一番難しそうなところからいくことにしよう。

教育の場に取り入れてもらいたい。

史実を変える(一時的にせよ)というのは難しいとしても(その必要があるわけでもない)、

芸術史における20世紀という時代の持つ特殊性をこの≪喪失≫とともに説明してほしい。

少なくとも我々のような≪20世紀の芸術≫という

「混迷の渦」から抜け出そうとした者がいたことだけは伝えてほしいものだ。

そして若い世代が芸術について考えるきっかけになってくれればとてもうれしく思う。
(こんなことをやったやつがいるのかと)



また、せめて教育の現場において子供や若者の『「20世紀の芸術」がわからない』という純粋な疑問に、

「ごまかし」や「定説」で対処するのだけはやめていただきたい。

「わかろうとせずに感じろ」や「先入観や常識で見るからわからない」も止めていただきたい。

きっと一層わからなくなるだけだから。

その時、子供たちに対して言えることとして、

私が提案できるのは「取りあえず20世紀を抜いて考えてみよう」

と言うことしかないのだが、いかがだろうか。


実際は、現場の教育者の方もこのやり方でかなり救われる部分があるのではないだろうか。

教育者の方々御自身も、嘘はつきたくないだろうし、

教科書に載っている≪20世紀の芸術≫を独断で否定することも許されないだろうし、

でも子供の疑問にも答えてはやりたいだろうし、これらを満たそうとすれば、

とくに芸術に興味があるとも限らない小・中学生(とは限らないが)に、「非常識なほど難解な論説」を

くり広げなければならなくなるのは間違いないだろう。


でも、もし、わからないのが「20世紀」だったら、

「そこは特殊な時代で君たちがわからないのは普通のことだから一時的に抜いて考えてみよう」

というやり方で、

子供たちの心に緩衝地帯を作ることができるかもしれない。

それは嘘でもないし独断でも偏見的な意見でもないだろう。

そして何より難解な部分は何もないのではないだろうか。


もしも説明するのならば「芸術」は抜いて「時代」のほうを説明すれば、

それほど複雑な説明にもならないと思うのだが、どうだろうか。


たとえば、『「激動の時代」の中で、人々の常識感がひっくり返されるようなことが繰り返し起きたために、

感受性の強い芸術家がそれを強調した形の表現手法をとった。』という感じでも十分かと思われる。

こんな捉え方をすることで、

「なるほど、色々なことがあったから天才たちも考え過ぎてしまったのか」と思えれば、

天才たちを身近に感じられて

「そうか天才たちも、わからなくなっちゃったから、わからない作品ができちゃったのか」

と気張らずに考えられるようになって、

ひょっとしたら「まてよ、わからないことをそのまま作品にできるのって凄いことなのかもしれないぞ」

と考える子もいるのかもしれない。


私は「20世紀の芸術」をわかってしまうことは誤謬にはまる危険性が高いことだと思っているので、

この最後の部分をお勧めする気はないが、それがその子の自由な気持ちの流れであれば止める気もない。

少なくとも、なんとなくわかったような顔をしていなければならないよりはかなりいいと思う。

だから、もっと「20世紀の芸術」をわかりたいという子を止める理由はないし、その子たちは参考資料を

提示してやりさえすれば、きっと嬉々としてそれを調べ、何らかの結論に達するに違いない。

その資料の中にこの「宣言文」を含む論稿を加えていただければ、その子が結論に到達するまでの時間が

きっと大幅に節約されるだろう。

結果的にその子がどんな結論に到達したとしても、それはその子の立派な「自説」なのだと思う。


②美術館の展示内容や企画に配慮していただきたい。


もちろん「20世紀美術の展示をするな」などという権利はないが、あえて無理なことを言わせてもらえるなら、

サブカルチャー的なとらえ方で企画していただきたい。

もともと20世紀美術にはそういう性格(前時代的なアカデミズムに対して)があると思うので、

20世紀美術全体≒サブカルチャーは不可能ではないと思うのだがどうだろうか。


つまりその時代の中でのサブカルチャーではなく他の時代との対比におけるサブカルチャーという形で

捉える事にさほどの無理は感じないのだが、それは私だけだろうか。


それが無理なら少なくとも、企画を立てる際にはこの「宣言」のことを意識していただきたい。
(もっと無理かもしれないが)

美術館関係者の方々には是非一度この「宣言」を(仮に、で構わないので)体験していただきたい。

そのうえで、企画を立てれば新たな発想も生まれるのではないだろうか。

「もしも、今が1914年だったら」そして自分たちが「20世紀の巨匠」達に代わって≪芸術の20世紀≫を

創り出して行こうとしているとしたら、ということにワクワクしてしまうのは、これも私だけなのだろうか。

そんな「ワクワク」を企画にしていただけたら、面白いと思うのだがいかがだろうか。

(④にあることと合わせてご検討いただければ、私としてはとてもうれしく思う。)


③マスメディアにおいては、「20世紀美術の話をなるべく取り上げないで」などといっても

意味がないことぐらいはわかっているし、そんなことをしても効果はないだろう。

むしろ「20世紀芸術」の話題が取り上げられる機会が増えれば、

この「宣言」にも気が付いてもらえる可能性が高くなるわけで、

そこで「こんなことを言い出した輩がいる」ということになれば勿怪の幸いである。

ただ、この「宣言」を広める上でマスメディアの力はそれほど重要だと思っていない。

どちらかと言えば一人の人の意識の変化が波紋のように広がってゆくという広がり方が

理想的なのかもしれない。


そもそも、この「宣言文」自体がインターネット上に発表されるのだから、

それもマスメディアにおける活動の一種なのかも知れないが

個人発信(私はなんの団体にも属していない)ということで、媒体としてのマスメディア利用であり

ネットワークに既に存在する宣伝拡散力・企画力・営業力等を

利用しないということで区別して考えている。


④これは、この「宣言」が一定の期間を経て、

何らかの効果を示し具体的な変化が現れてからの話になるが、

この「宣言」の中の≪芸術の20世紀 喪失≫について、

いずれは再検証するべき時が来るのではないかと考えている。


つまり、≪芸術の20世紀≫を復活して、元の位置に戻す必要があるということだ。

そしてこの作業が行われることでこの「宣言」はその役目を終えて、完結したといえるのだろう。


私たちは「20世紀の芸術」を今よりはるかに鮮明に見通せるようになって、

それをまともに理解できるようになってから、

もう一度その時代に起きていた事の「本当の姿」をまざまざと見せつけられるべきなのだ。

ただ、何年後にそれをすればいいのか私には見当がつかない。


まったく根拠はないがとりあえず20年後の再検証とその後、5年~10年毎の再確認を提案しておく。

本当は100年間喪失していたのだから100年後の復活としたいところなのだが、時代の進む速さが違いすぎて

どうにも見当がつかないのである。

取りあえず少し早めに再検証していく方がいいかと思い20年後としてみた。

これは見直すことに成る可能性が高いのかもしれない。


ただし、なんとなく再検証がなされないままに

≪芸術の20世紀≫が本当に忘れ去られてしまうというのは良いことだとは思えない。

だから、ずいぶん先の話になってしまうのだが、

「100年後の完全復活」と「全面的な再検証」だけは固定的に考えられるべきかと思っている。


また、こうした節目(定期的な再検証)を作ることは

芸術界にとってもプラスに成るのではないかと思っている。

昨今、「ビエンナーレ」や「トリエンナーレ」という企画を目にすることがあるが、

企画の目指すところが見えてこない時がある。

その時、世界が同じ一点を見つめて、考え、議論し、気づき、振り返り、問い直す、等々

いわゆる世界共通の目標のようなものがあっての企画であれば、

人々の意識はかなり高まるのではないだろうか。

そして、その時の反応こそが本当の意味での

≪芸術の20世紀≫に対する偽りのない人々の反応なのだと、私は思うのである。


⑤ここでやっと確実にできそうなことである。

私たち自身において、観念の中で≪芸術の20世紀≫を≪喪失≫させることに成功したなら、

まず、自分の意識を1914年に据えて、その視点ですべてのものを見て、考えてもらいたい。


20世紀の巨匠たちはまだその名声を確立していない

「ただの若造」として世界のどこかにいるはずである。

印象派についてすらやっと評価が定着し世界に広まった頃だろうか。

もちろん、そこにはもっと急進的で先鋭的な者もいるだろうし、

逆にまだアカデミズムを死守しようとする者もいるのだろう。


その「急進」から「死守」までの落差はかつてないほどに大きくなっている。

そして世界はこれから起こるであろう激動を予感しているに違いない。


その世界観や時代の空気の中で「あなたは何をするのか?」

『20世紀の誤謬』に陥らずに何ができるのか?

しかも、あなた方は20世紀において出尽くしたありとあらゆる≪スタイル≫を踏襲することを許されない。

進むべき方向はもう残されていない。

それは、すべて≪芸術の20世紀≫が実験してしまった残骸である。


もちろん≪20世紀≫は≪喪失≫されたのだから、それをするのは自由だ。

でも、我々は同じ過ちを繰り返すために≪喪失≫したのではない。

それは前に進むための≪喪失≫だったはずだ。

「そこであなたはどうしますか?」

「考えてください」

「迷ってください」

「そうして何とかして見つけてください」

≪自分≫の中の≪真実≫を≪自分の心の真ん中≫を、それを見つけ出せたなら、

それはきっと、あなたの≪最高の芸術≫であるはずだ。

少なくともあなた自身はそう評価するだろうし、その確信はもう揺るがないないはずだ。

その時点であなたは、もし誰からも評価されていなくても、

立派な≪新生芸術の20世紀≫の巨匠なのだ。

そう、あなたが、「ただの若造」(年齢ではなく)だったとしてもだ。

私はそう思うし、我々の仲間もきっとそう思うだろう。


具体的な≪芸術の20世紀喪失≫についてはこれぐらいにしておこう。

書きたいことはまだまだあるが羅列していくと

私自身も意味がわからなくなりそうなのでここで止めておく。

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   ※以下、2015年6月に一部を削除して追記

最期に、これだけは言っておきたい。

≪芸術の20世紀≫が「継承できないもの」であることは、既にはっきりしているだろう。

≪芸術の20世紀≫は自ら「継承する(される)こと」を拒絶していたのだから。


「継承することは必要ない」というのは、単なる「言い訳」にしかならない。

「継承」無くして、何ができるというのか?

絵の具の顔料を世界中の鉱物や有機物の中から探し出すことから始めようというのか?


「芸術」に限らず、すべての「文化」は「継承」されることによって成り立っている。

そうやって、登って行く階段のようなものである。

このことは、誰かが、肯定しようと否定しようと、

もう間違いのない事実として認めなければならないことに成ってしまっている。


これを拒否し続けることは、

あまりに、「愚か」なことであり、あまりに「悲しい」ことでしかない。

即ち、「不毛」である。


その単なる「意地の張り合い」は「継承すべきもの」としては

あまりに「貧弱」と言うべきであろう。


しかしながら、その「貧弱な不毛」こそが、

「現在に継承されているすべて」だというのが事実である。


これを「継続」していくのか、≪喪失≫するのかは、

個人の自由だ。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※上の画像は習作として描いた絵に洋金箔を貼ったものです。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ現在ようやく制作に漕ぎ着けております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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