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2.≪喪失≫の実践について


もちろん、すべては観念の中で≪芸術の20世紀≫を喪失することから始まるわけだが、これは頭の中で行う作業なので、説明は不要かと思われる。

ここでは、具体的なことで実践できそうなことを挙げておきたい。
これも随時追加(添削)することになるだろう。


わたしは、もし仮に、一人でもこの「宣言」に賛同していただける方が居るのであれば、その方が実践して行くことのすべてが「新たな芸術の展開」となると思っている。

つまり、その都度、その人が「新生芸術の20世紀」における、「芸術のパイオニア」と成って行くわけだ。

これは、なにも「創作者」に限ったことではなく、「鑑賞者」においても「批評者」においても、まったく格差なく同じことが言える。
理想的には、世界中のあらゆる人種、あらゆる階層、あらゆる地域、あらゆる思想、あらゆる・・・・・・・の人が、それぞれ『その人であること』をもって、「芸術のパイオニア」であるというのが最も望ましい形である。

だから、本来は「全員参加」を基本とする考えではあるが、実際には、これに賛同しない人は居るだろうし、初めの段階では、賛同する人はほとんど居ないだろう。
そんな時、世間一般の人たちが、どんなに、この≪芸術の20世紀 喪失≫という行為を軽視したとしても、わたしは常にその賛同した人たちの方を尊重する。

わたしとしては、、どんなに小さな単位での行動であろうと必ずや一定の成果に成るものと思っているので、どのような行為であっても、それが≪芸術の20世紀 喪失≫を前提に行われる限り、すべてが「芸術の新たなページ」に成ると思っている。

その時点で、その人は、すでに≪芸術の20世紀・喪失≫と言う自由な時空間に立っている。
だから、その人の考えたことも行った行為も、それらのすべてが≪新生芸術の20世紀≫において起きた出来事に成っていくのだ。
それが、どんなに小さなことでも、どんなに単純なことでも構わない、その行為の内容ではなく『そこで、それが、行われるということ自体』に価値が発生する、なぜなら、それが「新しい20世紀の芸術」に成っていくからである。

そして、そういう出来事の集積が、必ずや「新しい芸術の展開」にとって最良の結果をもたらしてくれるだろう。
(ただし、実践よりも「意識改革」が常に最重要な課題であるということだけは付け加えておこう。)



さらに、実際の行動についてもう少し付け加えるならば、現在形の考え方では、時代の流れを変えるには「マスメディアによる広範囲な宣伝力」を活用するなど、大容量の情報の流れを作り出す方法が有効な手段と考えられているが、その方法論こそが、いま私が「喪失」しようとしている「20世紀」を象徴するものであり、また、「20世紀の誤謬」を創り出した一因でもある。

従って、私はそういった「情報の力」を重視しようとは思わない。
私が重視しているのは「人の意識」である。

一人の「人の意識」が変わることこそが、いま私が考えている最大の変革であり、また、その最良の姿である。

現時点での私の考えでは、一人の「人の意識」が変わることは、時代の「すべての意識」が変わることに等しい価値があり、さらに言うなら、一人の「人の意識」が変わった時点で、「時代が変わった」といってもいいほどなのである。

つまり「時代」というものは常に流れていて、言ってみれば止まることなくいつも変革し続けているわけだから、一人目が変わった時が時代の変革の最先端の瞬間ということであり、その後、変わって行く時代の最初の点なのである。

確かに、その点が増えていって時代を埋め尽くすような勢いになれば、「時代が変わった」と言われるのであろうが、実は、それは単に「数量的」なことであって、私が問題にしているのは「質的」なことであるから、「数量」については、あまり関係があると思わないのである。

あくまで一人目の人にとっては自分が変わった瞬間が「変革の時」であって、その時から彼の中では「時代が変わって」いるのである。

当然それは何人目であっても同じことであり、一人の変革には一人分の価値があって、その「一人分の価値」は時代の全てを含む「時代の価値」に等しいのである。

そして、また、この一人の「人の意識」の変革が「一時の気まぐれ」や「単なる勘違い」でもない限り(そういうものを「変革」などとは言わないと思うが)、きっと、少なからず、時代は、その「人の意識」によって動かされてゆくことに成るのである。

それはおそらく「数量的」な力によってではなく、「質的」な力によって動かされることに成ると、私は思うのである。

従って、この「宣言」は、読んだ人が如何なる「質」をもって解釈し、また、自己に取り込むかということによって、大きく意味が変わってくるものであり、また、そのことによって、この「宣言」が成立するとも言えるのだ。


前置きが長くなってしまったが、以下に「喪失の実践」の具体例について記しておく。


①教育の場において

まず、一番難しそうなところからいくことにしよう。

もちろん、これは実践してくれる人がいるとは思っていないが、これを提案することがいま私にできることなので、それ以上を望むつもりはない。


仮にということであっても、歴史上の事実を変えるというのは難しいだろうが(その必要があるわけでもない)、芸術史における20世紀という時代の持つ特殊性を教育の場で説明してほしい。

そのことが、若い世代の人たちの「芸術について考えるきっかけ」になってくれればと思う。

また、せめて教育の現場において子供や若者の『「20世紀の芸術」がわからない』という純粋な疑問に、「ごまかし」や「定説」で対処するのだけはやめていただきたい。

「わかろうとせずに感じろ」や「先入観や常識で見るからわからない」も止めていただきたい。
疑問を向けている者にとって、こんなに無意味で無責任な回答はないのだから。

その時、子供たちに対して言えることとして、私が提案できるのは、『取りあえず「芸術の20世紀」を抜いて考えてみよう』と言うことしかないのだが、それこそが、まさに≪芸術の20世紀喪失≫に他ならないのだ。

これは、一見するとごく普通のことのように見えるかもしれないし、実際に普通のことではあるのだが、それを、ゴマカシや定説を使わずに子供たちに対する真摯な姿勢を保ちつつ説明するには、それなりの気構えが必要になる。

つまり、どうしても「20世紀の定説」や「20世紀の誤謬」が説明する過程で入り込んできてしまうわけだ。
それを避けるためには、説明する側にも≪芸術の20世紀≫を喪失するという、ある種の気構えが求められるのではないかと思う。


しかし、実際は、現場の教育者の方も、この考え方でかなり救われる部分があるのではないだろうか。

教育者の方々御自身も、嘘はつきたくないだろうし、教科書に載っている≪20世紀の芸術≫を独断で否定することも許されないだろうし、でも、子供の疑問にも答えてはやりたいだろう。
しかし、これらをすべて満たそうとすれば、芸術に興味があるとは限らない小・中学生に対して、「非常識なほど難解な論説」をくり広げなければならなくなるのは間違いないだろう。

でも、もし、わからないのが「20世紀」だったら、『そこは特殊な時代で君たちがわからないのは普通のことだから、一時的に抜いて考えてみよう』というやり方で、子供たちの心に緩衝地帯を作ることができるかもしれない。
いや、緩衝地帯を持つことに成るのは教育者の方も同じだろう。

それは嘘でもないし独断でも偏見的な意見でもないだろう。
そして何よりも難解な部分は一つもないはずだ。

もしも、説明するのならば「芸術」は抜いて、芸術の背景としての「20世紀」を説明すればいい。


たとえば、『「激動の時代」の中で、人々の常識感がひっくり返されるようなことが繰り返し起きたために、感受性の強い芸術家たちが、それを、やや極端に強調した形の表現手法をとった。』という感じでも十分かと思われる。

こんな捉え方をすることで、『なるほど、色々なことがあったから天才たちも考え過ぎてしまったのか』と思えれば、天才たちを身近に感じられて、『そうか天才たちも、わからなくなっちゃったから、わからない作品ができちゃったのか』と、気張らずに考えられるようになって、もしかすると『待てよ、わからないことをそのまま作品にできるのって凄いことなのかもしれないぞ』と考える子もいるのかもしれない。

私は「20世紀の芸術」をわかってしまうことは誤謬にはまる危険性が高いことだと思っているので、この最後の部分を推奨する気はないが、それがその子の自由な気持ちの流れであれば止める気もない。
少なくとも、なんとなくわかったような顔をしていなければならないよりは、かなりいいと思う。

だから、もっと「20世紀の芸術」をわかりたいという子を止める理由はないし、その子たちは参考資料を提示してやりさえすれば、きっと嬉々として、それを調べ、何らかの結論に達するに違いない。

出来ることなら、その資料の中に、この「宣言文」を含む論稿を加えていただければ、その子が結論に到達するまでの時間が、きっと大幅に節約されるだろう。

結果的に、その子がどんな結論に到達したとしても、それは、その子の立派な「自説」なのだと、私は思う。


②美術館の展示内容や企画について

これも、実際に実践されることは考えにくいが、「一鑑賞者の意見」として述べておきたい。


あえて無理なことを言わせてもらえるなら、「20世紀の芸術」の展示を、サブカルチャー的なとらえ方で企画していただきたい。

もともと20世紀美術にはそういう性格(前時代的なアカデミズムに対しての、サブカルチャー的な面)があると思うので、20世紀美術全体≒サブカルチャーと言う捉え方に無理はないと思う。


その時代の中でのサブカルチャーではなく他の時代との対比におけるサブカルチャーという形で捉える事にさほどの違和感はないだろう。


それから、美術館関係者の方々に、是非一度、この「芸術の20世紀喪失」を、仮に体験していただきたい。
そのうえで、企画を立てれば新たな発想も生まれるのではないだろうか。

『もしも、今が1914年だったら』、そして自分たちが「20世紀の巨匠」達に代わって、≪芸術の20世紀≫を創り出して行こうとしているとしたら、ということにワクワクしてしまうのは、私だけなのだろうか。

そんな「ワクワク、感」を企画にしていただけたら、面白いと思うのだがいかがだろうか。
(④の最後の部分にあることと合わせてご検討いただければ、私としてはとてもうれしく思う。)


③マスメディアとの関係

そもそも、この「宣言文」自体がインターネット上に発表されるのだから、それもマスメディアにおける活動の一種であると思われるかも知れないが、個人発信(私はなんの団体にも属していない)ということで、媒体としてのマスメディア利用であり、ネットワークに既に存在する宣伝拡散力・企画力・営業力等を利用しないということで区別して考えている。

私は、この「宣言」と、マスメディアとはほぼ無関係だと思っている。
いや、そもそも「あらゆる情報」と関係がないといった方がいいのかもしれない。
どちらかと言えば、一人の人の意識の変化が、波紋のように広がってゆくという広がり方が理想的なのだと思っている。

「必要な情報」は、あらゆる人の中にすでに備わていて、むしろ、その持っているはずの情報を覆いつくして見えなくしているのが「マスコミの提供している情報」に代表される「量的な情報」なのだ。


要するに、「マスコミに乗らないこと」こそが必要なことなのだろう。


④「宣言」の再検討 


これは、この「宣言」が一定の期間を経て、何らかの意味を示し、「芸術」に具体的な変化が現れてからの話になるが、この「宣言」の中の≪芸術の20世紀 喪失≫について、いずれは再検証するべき時が来るのではないかと考えている。

つまり、≪芸術の20世紀≫を復活して、元の位置に戻す必要があるということだ。

そして、この作業が行われることで、この「宣言」はその役目を終えて完結するといえるのだろう。


その時、私たちは「20世紀の芸術」を、今よりはるかに鮮明に見通せるようになって、それを、まともに理解できるようになってから、もう一度、その時代に起きていた事の「本当の姿」を、まざまざと見せつけられるべきなのだ。

ただ、何年後にそれをすればいいのか私には見当がつかない。

まったく根拠はないがとりあえず20~50年後(※)の再検証とその後、5年~10年毎の再確認を提案しておく。

本当は100年間喪失したのだから100年後の復活としたいところなのだが、時代の進む速さが違いすぎてどうにも見当がつかないのである。

取りあえず少し早めに再検証していく方がいいかと思い20~50年後(※)としてみた。
これは見直すことに成る可能性が高いのかもしれない。


ただし、なんとなく再検証がなされないままに≪芸術の20世紀≫が本当に忘れ去られてしまうというのは良いことだとは思えない。

だから、ずいぶん先の話になってしまうのだが、「100年後の完全復活」と「全面的な再検証」だけは固定的に考えられるべきかと思っている。


※当初は、「20年後」としていたが、幅を持たせるために「20~50年後」と改めた。

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また、これは、余談に成るが、こうした節目(定期的な再検証のような)を作ることは芸術界にとってもプラスに成るのではないかと思っている。

昨今、「ビエンナーレ」や「トリエンナーレ」という企画を目にすることがあるが、企画の目指すところが見えてこない時がある。
その時、世界が同じ視点を持って、考え、議論し、気づき、振り返り、問い直す、等々、いわゆる世界共通の目標のようなものがあっての企画であれば、人々の意識はかなり高まるのではないだろうか。

そして、その時の反応こそが、本当の意味での≪芸術の20世紀≫に対する偽りのない人々の反応なのだと、私は思うのである。


⑤空想上の体験 



これは、「観念の中での喪失」とほとんど同じことに成るのだが、そこに少しでも「具体性」を感じられたら、その「古くて新しいい時代」を実感しやすく成るだろうと思い、これを加えておく。


そして、ここに来て、やっと確実にできそうなことである。

私たち自身において、観念の中で≪芸術の20世紀≫を≪喪失≫することに成功したなら、まず、自分の意識を1914年に据えて、その視点ですべてのものを見て、考えてもらいたい。


20世紀の巨匠たちは、まだその名声を確立していない「ただの若造」として世界のどこかにいるはずである。

印象派についてすら、やっと評価が定着し一般に広まった頃だろうか。
もちろん、そこには、もっと急進的で先鋭的な者もいるだろうし、逆にまだアカデミズムを死守しようとする者もいるのだろう。

その「急進」から「死守」までの落差はかつてないほどに大きくなっている。
そして世界はこれから起こるであろう激動を予感しているに違いない。

その世界観や時代の空気の中で、あなたは何をするのか?
『20世紀の誤謬』に陥らずに何ができるのか?

しかも、あなた方は20世紀において出尽くしたありとあらゆる≪スタイル≫を踏襲することを許されない。
進むべき方向はもう残されていない。
それは、すべて≪芸術の20世紀≫が実験してしまった残骸である。

もちろん≪20世紀≫は≪喪失≫されたのだから、それをするのは自由だ。
しかし、我々は同じ過ちを繰り返すために≪喪失≫したのではない。
それは前に進むための≪喪失≫であったはずだ。

『そこで、あなたはどうしますか?』

『考えてください』

『迷ってください』

『そうして何とかして見つけてください』

≪自分の中の真実≫を≪自分の心の真ん中≫を、それを見つけ出せたなら、それは、きっと、あなたの≪最高の芸術≫であるはずだ。
少なくとも、あなた自身はそう評価するだろうし、その確信はもう揺るがないないはずだ。

その時点で、あなたは、もし誰からも評価されていなくても、立派な≪新生芸術の20世紀≫の巨匠なのだ。
そう、あなたが、「ただの若造」だったとしてもだ。

私はそう思うし、我々の仲間もきっとそう思うだろう。


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具体的な≪芸術の20世紀喪失≫についてはこれぐらいにしておこう。

書きたいことは、まだまだあるが、羅列していくとあまりの実現性の低さに滅入ってしまうのでこの辺でやめておく。


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   ※以下、2015年6月に一部を削除して追記した際の削除部分

最期に、これだけは言っておきたい。

≪芸術の20世紀≫が「継承できないもの」であることは、既にはっきりしているだろう。
≪芸術の20世紀≫は自ら「継承する(される)こと」を拒絶していたのだから。

「継承することは必要ない」というのは、単なる「言い訳」にしかならない。
「継承」無くして、何ができるというのか?
絵の具の顔料を世界中の鉱物や有機物の中から探し出すことから始めようというのか?

「芸術」に限らず、すべての「文化」は「継承」されることによって成り立っている。
そうやって、登って行く階段のようなものである。

このことは、誰かが、肯定しようと否定しようと、もう、間違いのない事実として認めなければならないことなのだ。


これを拒否し続けることは、あまりに「愚か」なことであり、あまりに「悲しい」ことでしかない。
即ち、「不毛」である。

その単なる「意地の張り合い」は「継承すべきもの」としては、あまりに「貧弱」と言うべきであろう。

しかしながら、その「貧弱な不毛」こそが、「現在に継承されているすべて」だというのが事実である。


これを「継続」していくのか、≪喪失≫するのかは、個人の自由だ。





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プロフィール

ふたつ

Author:ふたつ
※トップ画面とプロフィール画像の絵は習作として描いた絵です。

ご訪問いただき、ありがとうございます。

自分自身の制作に対する姿勢を示した「宣言文」をブログの形で発表するのは、筋が違うのかとも思いますが、このような形しか思い当りませんでした。
ご容赦ください。
興味のない方にはたぶん面白くないでしょう。

ただ、私はここに書いたことがこれから確実に起きることだと思っています。
と言うよりも、すでに起きていることだと思っています。
「天才の時代」は、もう終わらせなければいけないと思うのです。
「天才」なんてもう何処にも居ないのだと思うのです。
「天才」は、もう誰にとっても必要ないモノに成っているんじゃないでしょうか?。
「普通の人」が、もっともっと芸術に関われるようになったら、
少しいいんじゃないかと思います。

いえ、芸術に限った話でもないのです。
全てのことが、今よりもっと「普通」でいいんじゃないでしょうか?
「個性とは実は最も普通なことなのではないのか?」
私はそんな風に思うのです。

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1960年の生まれです。
横浜在住です。
過去に何一つ実績と言えるものはありません。
30歳に成った頃、絵を描き始めました。
その後、細々と美術に関わる仕事をしていましたが、自己作品の制作にはあまり積極的とは言えませんでした。
2013年のはじめ頃から、自己作品に対する欲求が生まれ、現在は妻の収入に頼って、ようやく制作に漕ぎ着けております。

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読みづらいところもあるかとは思いますが、読んでみて下さい。


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